たとえどれほどの苦しみと共にあっても。
たとえ苦しいものでしかないように思えても。
隙を見せたブラッドオークに、斧を振りかぶった。けれど隙を見せたように思ったのは、戦いのためだけに生まれたブラッドオークの、どうやら作戦だったらしい。
――思ったときにはすでに遅く、信じられないくらい重いこぶしが、自分の腹に突き刺さったのが分かった。
「……!!」
「リドリー!?」
腹が裂けたのではという衝撃、軽い彼女の体重が殴りつけられた勢いそのままに空を飛ぶ。
最後に聞こえたのは――最近になってようやく少しだけ、認めてやっても良いかな、そう思いはじめた少年の声で。何がどうなったのか、焦点が呆けた目が一瞬だけその少年の方を向いて。
――バカだな、なんて顔をしている。
そんなことを思ったのも一瞬、すぐに何も見えなくなる。何も聞こえなくなる、感じなくなる。
意識が黒に塗りつぶされて、何も何も分からなくなって――
――ここは、どこだ?
リドリーはつぶやいた。つぶやいたはずが声は音にならなくて、ただ思念が波紋のように周囲に広がったのが分かった。そんな世界、もちろん今まで彼女はまるで知らなかったはずなのに、ここはそういう場所なのだとなぜか普通に納得している。
気が付いたらいきなりそんなところに投げ出されていたのに、彼女は普通に納得している。
――わたしは、
そして周囲を見回そうとして、まともな身体が今の自分にないことに気付いた。先ほど声が出なかったのも当然だ、音を出すための実体がない。たとえば透き通る幽体でさえなくて、今の彼女はただの淡い小さな光の玉だった。
――……これが、死、か……?
思考は波紋のように広がる。自分の思念を音のように聞き取りながら、聞き取った気分になりながら、彼女は、リドリーの思念は身体があったならきっと自嘲の笑みを浮かべていた。
今の自分がひどく滑稽に思えた。
――先ほどの瞬間を、覚えている。
――気を失ってここに来る直前のことを、くっきりと覚えている。
覚えているから自分が死んだことに納得して、だから彼女は自嘲に揺れる。
――とんだ愚か者だ。ブラッドオークの隙を突くなんて芸当、今のわたしにできるはずがないのに。
その前に団員全員でかかっても、ろくに斧を当てることさえできなかったのに。それが、この隙を逃がしてなるかとたった一人向かおうとした時点で、彼女は間違えていた。
もちろんエルフの集落にブラッドオークを招くつもりなどなかったけれど、たとえば牽制に集中するとか、今の彼女に相応しい、できること、すべきことがあったはずなのに。
あったはずなのに、それを探す手間を惜しんで。たとえあのときのブラッドオークの隙が演技や作戦ではない、本当の隙だったとして。
――二度はないと、誰が決めた?
――その隙を作り出すための努力を、するべきだったのではないのか??
リドリーの思念は、自嘲に揺れて。自分を責める心の声に、打ちのめされる。
――わたしは、何をしていたのだろう。
光もない時間さえ流れない、そんな凍結した世界。ここにいるうちに「リドリー」としての自覚は薄れ、やがて世界そのものと同化するのだと、分かっていた。それが「死」なのだと、知っていた。
――わたしは、何をしてきたのだろう。
自嘲の発作がやがて薄れて、ぽつりぽつりとリドリーの思念が広がる。後悔を塗り固めたような自分の声――思念に、引きつった笑いがこみ上げてくる。
――北方大鷹、ティンバーレイク家の嫡子に生まれて。
――騎士だった母を、凛々しくやさしく美しかった母を目指して。
――ただ、母を目指してがんばってきた。
――勉学も闘いの術も、そのために身に着けてきたのに。
――その一歩、やっと正式な騎士になって、ようやく二回目の任務について。
――たった二回目の任務さえこなすことができずに、判断を誤って自滅した、なんて。
事実を淡々と思い出せば、自分の至らなさに嘆きの念が生まれた。やがて泣いているようにふるえながらの思念が、自分のまわりにわだかまっていく。
――亡き母に何と詫びればいい。
――過保護で迷惑だったけれど、確かに自分を愛してくれた父に、何を詫びればいい。
――領主となるはずだった自分を亡くして、領民はどうする。
――そして、桃色豚騎士団のメンバーは。ガンツ団長は、ジャックは。
どこまでも愚かな自分を鼻で笑ってくれれば良いのに。
あの瞬間見えてしまった、ジャックの凍り付いたような、激怒した、困惑した、恐怖した、泣きそうな、歯噛みするような、後悔するような――哀しむような。あのときの顔に、自惚れかもしれないけれど、きっと優しい人全員を哀しませるのではと思ってしまう。
――そうしてくれれば、嬉しい。
――そうしてくれると、哀しい。
――死にたくなかった、生きたかった。
――生きて、自分の使命を果たして。
――自分の生まれた意味を、生きてきた意義を、実感したかった。
――借りっぱなしになっていたたくさんのものを、せめて少しでもちゃんと返したかった。
――自分を認めたかった。
――自分を認めてほしかった。
――本当は醜い、コンプレックスだらけの自分をちゃんと認めて。
――そんな自分を、誰かに許してもらいたかった。
重荷でしかなかったことを次々思い出して、苦しくて苦しくて逃げ出したかったことを次々思い出して。
ここにいれば、それらはどこにもないけれど。
責め立てられることも、義務感に縛り付けられることも、何もないけれど。
それなのに、今、こうして思い出せば苦しかったすべてさえひどく懐かしかった。母の微笑んだ顔、父の自慢そうな顔、師の満足そうな吐息、領民たちの戸惑った苦笑めいた笑顔、ガンツ団長のまるまるした顔。ジャックの、いつだって全開の間抜け面。
苦しいことさえ懐かしくて、その中の笑顔がどれもまぶしかった。彼女がしたちょっとしたことで喜んでくれたことが、嬉しかった。落ち込んでいたときのさりげないやさしさが、あたたかかった。
ここにいれば傷付くことはないのに。
それよりも、たとえどれほど傷付けられても。凍結したこの世界でゆっくりと消滅を待つより、身を削るような現実の痛みにさらされていた方が良かったと、思ってしまったのはリドリーのエゴだろうか。
――ジャック、お前の言う秘密基地とやらを見たかったんだ。
――わたしを淋しいと言ったお前の、一番の笑顔を、一度見てみたかった。
リドリーの思念が細かく燐光を放つ。弱々しいその燐光は、誰も見ていないけれど、彼女本人も気付いていないけれど。
まるでそれは、涙のようで。
たとえどれほどの苦しみと共にあっても。
たとえ苦しいものでしかないように思えても。
生きる、ということは。
――素晴らしいことだと。
なんて愚かなのだろう、わたしは。こうして死んで、はじめてその意味が分かった。実感した。死に触れて、死に抱かれてはじめて。
――もう、遅いけれど。もうどうしようもないけれど。
――生きたかった。生きていたかった。
――血反吐を吐くような苦しみにもがきながら、それでも、強がりでも笑っていたかった。
流れるはずのない涙が、ないはずの頬を伝って。
遠く、はるか頭上に、
なんだろう、光、が、
