――ここに、いてね。
泣きそうな翠がささやいた。
――目が醒めるまで、そばにいてね。
自覚のないすがるような翠が、

―― Ein kapitales Weib

「阿呆」
彼は深く息を吐き出した。
心の奥に、もやもやした黒い塊が渦を巻いている。一瞬ごとに大きさを密度を増していくそれに肺が圧迫されて、息を吸えば吸うほど胸が苦しくなる。
「阿呆……」
胸の奥のその塊を少しでも小さくできるならと、力のないいつもの罵声に混ぜてもう一度息を吐き出してみた。
予想通り、それはまったくの無駄でしかなくて。
彼の、アルベルの目の前には、
血の気の失せた顔で昏々と眠りに落ちた、青い髪の佳人――マリアの姿がある。

◇◆◇◆◇◆

現在地――戦艦ディプロ、マリアの自室。
部屋の主の性格どおり、余計なものが一切見当たらないその部屋をアルベルが訪れたのは。何のことはない、暇つぶしにこの艦の中を散策しようとした結果、いっそ笑えるほど見事に遭難しかけたからだった。

何度目かも分からない突き当たりの壁に、八つ当たりと自覚しながら刀を振り回したくなって。苛立ちのあまり思わずそんなことを実行に移しかけたそのとき、壁の模様のように思っていた脇の四角がいきなりドアになって開いて。
ひどく顔色の悪いマリアが、それでもどこにすがることもなくまっすぐ立っていて、
――あら、アルベル。
彼を映した翠が深く深く澄んでいた。
――迷ったの? まあ、慣れない場所だから仕方がないのかもしれないわね。
ささやくようなつぶやきは、それでもやわらかな響きで彼の耳に届いた。
――ちょうど良いわ、私、医務室に用があるの。そのついでに部屋まで案内してあげる。
血の気を失った薄い唇がかわいげのないことをつぶやいて、彼の返事を待つことなく一歩踏み出しかけて、
とたんに細い肢体がぐらりと揺れて。
マリアが発熱していることに気がついたのは、目の前で崩れかけた身体を反射的に抱きとめたとき。その時点ですでに彼女は意識を失っていて、力の抜けた身体をどうしたものかと抱え上げたときだった。

◇◆◇◆◇◆

「……おい、どこ行きゃ医務室とやらがあるんだ」
マリアが完全に意識を失っていることを知りながら。つぶやくようにぽつりと訊ねて、アルベルはすぐにあきらめの息を吐く。
いい加減に抱き止めたため、何の拍子にか完全に弛緩した身体がずるりとすべった。あわてて思わず抱え直して、その動きに反応したのか、彼女が出てきたドアが空気の抜けるような音を立てて瞬時に開いて、
「……ちっ」
ドアとマリアを見やって悩んだのは一瞬。舌打ちをひとつ、アルベルは彼女を肩に抱え上げた。
わざとずかずか無遠慮に、その部屋に足を踏み入れる。

そうして部屋のベッドに彼女を横たえたのは。
――一度手助けしてしまった以上、最後まで面倒を見るべきだと思ったから。
――仮にも毎日顔を合わせ続けて、愛着心めいた妙な気持ちがあったらしいから。
――いくら「歪」の二つ名を持つ彼でも、目の前でぶち倒れた女を見捨てることは……

いいわけを並べる頭をひとつ振って、思考から追い払う。
そういえばこの艦は大して広くないと、誰かが言っていたことを脈絡もなく思い出した。だったらしらみつぶしに探せばいつかは医務室に、……ではなくて割り当てられた部屋に戻るのではと、そのついでになんだったら薬を――いや、アルベルは健康だからそれは関係なくて、
脱線しかける思考を何度も何度も修正しながら、このままここにいてもすることは何もないなと。
ベッドにマリアを投げ出して、すぐさま部屋を出ようとした彼は、
「?」
なんだか小さな抵抗感に、疑問を浮かべて振り返った。
「……!」
とろり、眠気混じり熱混じりの翠と、まともに目が合う。

◇◆◇◆◇◆

「……助かったわ」
かすれた声。アルベルの服をつかんでいた手がぱっと開いて、かすかな抵抗感がすぐに消える。
「この前の戦闘で、……ちょっと怪我をしていて。大したことないからってほうっておいたら、なんだか熱を持っちゃったのよ。大げさに騒ぐこともないと思って、なんとかなると思って……でも、さすがにダメね。
部屋に帰った安心感から、かしら。熱が一気に上がったみたいで……熱冷まし、この部屋の常備薬にあると思うけど、字を読むのがつらくて」
特に訊ねてもいないのに、体調管理のできなかった自己嫌悪からだろうか。ぼそぼそと早口でつぶやくように、いいわけを並べるようにマリアが説明する。
自力で薬を探し出すことをあきらめて、どうやら医務室で処置を頼むつもりだったらしい。
アルベルは馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「――それで出歩いてぶち倒れてりゃ世話ねえな」
「そうね……だから、ありがとう」
相変わらず血の気のない顔が、懸命に笑う。たぶん本人はいつもどおりの笑み、冷笑なり苦笑なりを浮かべているつもりで、けれど実際アルベルの目に映るそれはいかにも泣き出しそうな笑みで。
アルベルが渋面になった。髪をかきむしると、今度は三秒悩んで、あきらめてベッドの脇の椅子にどかりと腰を下ろす。マリアの顔に疑問の色が広がる。
「……アルベル……?」
「てめえが、案内買って出たんだろうが。言ったからには実行しろ、阿呆」
「今は……ちょっとムリね」
「だったらとっとと治せ」
単なる怪我なら、簡単な術をアルベルは使うことができる。常備薬のおいてある場所、薬の色やら特徴やらさえ説明されたなら、熱冷ましとやらも多分見付けられる。
あるいは、抱え上げて医務室まで運べと言われたとしても。
先ほど抱き上げた細い身体は、信じられないほど弱くて脆くて。大してかさばりもしない重くない身体なら、荷物にもならない。

打開策なら、アルベルに可能な打開策ならいくつも存在する。ちらりと目をやれば、困ったような翠が瞬いて、
「……ちょっと、寝てもいいかしら。考えたいのに頭が働かなくて、」
「好きにしろ阿呆」
先ほどのものよりはずっと「笑み」に近いものがマリアの顔に浮かんだ。かすれた小さなつぶやきにぞんざいにうなずけば、浮かんだばかりのかすかな笑みがまた少し色濃くなる。
それがほのかに嬉しかったなど。そんなことは当然錯覚に違いなくて。

――ここに、いてね。
泣きそうな翠がささやいた。
――目が醒めるまで、そばにいてね。
自覚のないすがるような翠が、

「ありがとう……」
ため息にも似たその言葉は、安堵からか体力が尽きたか、あっさり寝息にまぎれていって。普段はあきれるほどに完璧に感情を押し殺す翠、ゆっくりと伏せられた翠の直前に、珍しく分かりやすい感情が揺れていて。
その感情がどういった種類のものか、分析をするつもりはない。
きっと「事実」を知って以降ろくに眠れなかったマリアが、今こうして彼の前で無防備に眠りに落ちたことが。
誇らしいと、気付いてはいけない。たとえ気付いても認めるつもりはない。

◇◆◇◆◇◆

「阿呆」
彼は深く息を吐き出した。
心の奥に、もやもやした黒い塊が渦を巻いている。一瞬ごとに大きさを密度を増していくそれに肺が圧迫されて、息を吸えば吸うほど胸が苦しくなる。
「阿呆……」
胸の奥のその塊を少しでも小さくできるならと、力のないいつもの罵声に混ぜてもう一度息を吐き出してみた。
予想通り、それはまったくの無駄でしかなくて。
彼の、アルベルの目の前には、
血の気の失せた顔で昏々と眠りに落ちた、青い髪の佳人――マリアの姿がある。

誰よりも強くて誰よりも儚い、絶世の美女が。
彼の目の前に、今。

―― End ――
2005/06/28執筆 2005/06/29UP
アルベル×マリア
OFP
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Ein kapitales Weib
[最終修正 - 2024/06/21-10:38]