アナタの望み、叶えましょう。
カタチのない望みに限り、いつもはできないことをひとつだけ。
「……何で俺が……」
アルベルが苦虫を噛み潰した顔でうめいた。目の前にはどこにでもある普通の扉、その向こうにはマリアがいるはずだ。気配がある。
「……チッ」
――別に、すっぽかせば良いことじゃねえか。
頭の中でもう一人の自分がため息まじりに吐き出している。
――その通りだ。
思いながらもどうしても踵を返すことができない。どうしても、できない。
昨晩、養父と養女がなにやら喧嘩をしているのを、というか養女が一方的に養父に噛み付いているのを彼も見ていた。
だから、養父の方がなにやら小さな箱を抱えてそわそわしていたり、養女の部屋の方をちらちら見ては微妙な顔でため息を吐いたり、誰かに何かを頼もうとしては躊躇してらしくないとぶつぶつつぶやいたり。
……そんな様子に、大体理由が分かった。
他人ごとだとばっさり斬り捨てて面倒に巻き込まれる前に逃げようとした矢先、意を決した養父にとっ捕まったときにも大体用件は分かっていた。果たして、
――あいつに謝りてえ、というかゴキゲン伺いに渡すモノの用意はできたんだ。ただ、どうにも気まずくてなあ。後生だから部屋からマリアを連れてきてくれねえか?
果たして、拝み倒す勢いで逆に脅迫しているような、そんな様子で畳みかけられて。突っぱねても絶対に食いついて放さないという執念めいたものを感じて、なんだかもうげんなりして。
――そんな頼みなど無視すれば良いのに。別に、彼の今までが今までだったから、頼みを蹴ったところで誰も不審に思わないのに。それなのに。
なのに。
アルベルは今、頼まれたとおりマリアを呼び出すためにここに来ていて。ここまで来ておきながら、今さらうじうじと悩んでいて。そんな自分がつくづく嫌になって、
……そういえば、先日よく分からないなりゆきでぽろっと聞いたマリアの言葉を、不意に思い出したりとかして。というか、忘れようがないずっと引っかかっていたそれを、たとえ強引にでも追求してやろうかという気になってみたりして。
一度決めたら、アルベルの行動は早い。
がつん、とドアを適当に殴り付けた。
「入るぞ」
声をかけて、ノブをひねる。――一応礼儀を守ったのは、情け容赦も遠慮もないマリアに今まで何回か同じことをして、その数分だけ散々煮え湯を飲まされていたからだ。これが他の人間なら、きっといきなり扉を蹴りつけている。というかそもそもここにいない。
とりあえずガラが悪い。
ともあれ。鍵をかけてあったのか引っかかりを感じたけれど、力任せにノブをひねったら、ばきん、とかいう手ごたえとともに抵抗がなくなった。どうやら無駄に壊したらしい。
「……ヤワすぎるんだよ」
ごちてそのままドアを開ければ、きっと多分絶対に飛んでくるはずの文句はなかった。
「?」
――何だ。
眉を寄せたアルベルの目に。なにやら変に脱ぎ捨てられたマリアの服が一式、転がっているのが映る。それは単に脱ぎ捨てたままにしてあるというのではなく――マリアの性格上、まずそんなことはありえないのは置いておくとして。
それはたとえば、普通の服を着たままの状態で、いきなり「中身」が消えたときのようなそんな感じで。
そして。
「なーお」
まろい鳴き声とともに、黒猫が一匹するりと現れた。
アルベルの目が、点になる。
少し前、アルベルの身によく分からないことが起きた。
変な夢を見て、次の日。誰がどう見ても――完全な猫、に。彼の身体が変化した。思考もどうやら猫寄りに変化したらしく、猫っぽいアルベルは――なぜかマリアになついた。
そして、それこそ何がどうなったのかまるで分からないものの。
丸一日ほど猫だったアルベルは、そんなアルベルに気付かないマリアのそばにずっといて。「姿が見えないアルベル」をそわそわと心配する姿を見ていて。マリアがアルベルをどう思っているのか、引っかかる台詞を聞いて。
特に心配することなくいつもの姿に戻った後にも、妙にぼんやりした感覚はあるものの「その時」の記憶はしっかり残っていて。
「……てめえ、まさか「マリア」だとかいうつもりはねえだろうな?」
「なーぅ」
まさかありえないに決まっているもののもしも「この前」と同じことが今度はマリアの身に起きたなら。少なくともこちらの言葉は通じるはず、とためしに、自分でも笑えるくらい恐る恐る腰が引けた感じにつぶやいてみれば。
猫はタイミングよく鳴いた。
「当然でしょ」などとすましたマリアに変に重なって見えた。
「…………」
――妄想とか、いや疲労から思考が変になっているとか、いやまさかしかしでも。
――でも。
「わーアルベルさん! そのねこちゃんどうしたんですか!? この前マリアさんもねこちゃん連れてましたけどあのねこちゃん気がついたらいなくなってるし!」
「……うるせえ」
どこか気品を感じさせる、これ以上ないほどにつややかに手入れされたビロードの黒。黒すぎていっそ青にも見えるその毛皮を一部の隙なく着こなして、大人になりきらない、けれど子供でもない微妙な年ごろのそのきれいな猫は、うるさい、と言いたそうな顔で近寄ってきた少女を見下ろす。
アルベルの肩の上から。
やる気のないその静かな姿も、無愛想この上ない仕草も。けれどこの猫がそれをやると、ひどく似合って見えた。思わず気後れするような気品を勝手に感じてしまう。
「きれいなねこちゃん……」
うっとりと胸元に握りこぶしを作る栗髪の少女の手に、絆創膏がべたりと貼り付いている。先日の「あれ」は夢ではなかった証拠が、少女のその手に残っている。
アルベルは息を吐く。
「……寝る。起こすな、騒ぐな」
「あ、はい……分かりました。ねこちゃん、ばいばい。今度遊んでね」
アルベルの肩に乗った黒猫は、いかにもしかたがないという感じに、長いしっぽをはたりと振った。それでもう終わりというように少女から興味をなくして、まるで防寒の毛皮よろしくアルベルの首元にまとわりつく。うるさい邪魔だ動くなと、いかにも適当に撫で付けてくる指をざらりとした舌で舐める。ぴくりと眉を跳ね上げて、しかしアルベルはそんな猫を怒らない。
なんだか、
「……なんだか仲の良い恋人みたいです……」
「頭沸いてんじゃねえのか阿呆」
うっとりとつぶやく彼女をばっさりと斬り捨てて。アルベルは自室に引っ込んでいく。
「――ああ、そういやマリアは部屋にいなかったぞクソ虫」
「……? あ、クリフさんにそう伝えておきますね!」
――いや、これが「マリア」だとは限らないわけだし。
部屋のベッドで。これ以上ないほどにだらけて寝転んだアルベルは、その見かけとは正反対の一生懸命さで頭を回していた。
ぐでー、とうつぶせになった彼の視界のすみ、二つに分けてしばってある彼の髪にじゃれ付いている黒猫が見える。「気品」などどこにもない、無邪気でバカっぽい夢中になって遊んでいる子猫の姿がある。
――大体、ヒトがネコに変わるなんてあるはずねえだろうか。
見るとはなしに猫を見ながら、というか目を離せないアルベルの視線の先に。
興奮のあまり爪まで出してばりばりやっている黒猫。先ほど栗髪の少女に見せた姿より確実に一回りは小さい。幼い。何が面白いのか彼の髪をおもちゃに、今度は噛み付いてあぐあぐやってみたりして。
あとの始末が大変そうだ。
真面目に熱心に考えているはずなのに、そんな猫の姿を見ているとアルベルの頭から「真面目で硬い」内容が飛んでいく。そのかわりに「無邪気は最強だ」というひたすらどうでも良い言葉が脳裏に浮かんで、居座る。
アルベルは息を吐いた。
猫をつぶさないようにうつ伏せから仰向けになって、自分の髪を取り返す。楽しく遊んでいたおもちゃを取り上げられて、いかにも不満顔になった猫の首根っこを捕まえた。びろーんと緊張感なくのびたほそっこい身体を――少し考えて自分の胸元に置いて。手を離して、持ち上がった毛皮を適当に指でなで付ければ、ひどく気持ちよさそうに目を細めるのが、なんだか、
「……満足か?」
ごろごろとのどを鳴らして、アルベルの手に頭をすり寄せてくる黒猫を。「マリアかもしれない」、エリクール出身のアルベルの目には変な感じがする一本だけのしっぽの猫を。無条件に彼になついてべったり甘えてくる、華奢でしなやかな雌猫を。
壊れてしまいそうなもろさにおっかなびっくりしながらなでてやりながら。
訊ねるまでもなく――少なくとも「嬉しそう」な黒猫に。
この猫に、抱いたこの心は、
やがて猫をなでる手がゆっくりになって。ゆっくりの手がそのうち止まって。
アルベルの端正な顔立ち、その薄く開いた口元から、「くかー」などという間抜けこの上ない寝息が漏れて。
彼の胸元に丸くなっていまだごろごろやっていた猫のシルエットが、ぐにゃりと歪む。
ぐにゃりと歪んだ猫のシルエットが、変にひきつれてあちこち伸びた。ぼこぼこ、と毛皮の下に何かを隠しているように不自然に脈打って、密だった毛がゆっくりとなくなっていく。
「…………え?」
完璧に寝入っているアルベルの手が、腰あたりにある。力の抜け切ったその手は動かなくて、ただほのかに体温が暖かい。
マリアはぱちぱちと目を瞬いた。
記憶が、空白の記憶にまず真っ先に気づいた。
そして、寝ているアルベルの上に馬乗りになって、彼の手が腰あたりにある――その事態に気がついた。理由が分からなくて、なりゆきが分からなくてマリアは混乱する。
――何か変な夢を見た。
――青髪の、迷惑ごとが大好きなパーティリーダーが。そのリーダーによく似たぜんぜん知らない誰かが。
――にこやかに、何か言った。
――……願いをかなえてやる、とかなんとか。
――そんなことできっこないじゃない。
夢と把握している夢で、言ってきたリーダーによく似た別人は、けれどマリアの返事にかまわずに指を伸ばして。何かをつぶやきながら空中に文字を書いて。その言葉がぴたっと止まった瞬間、マリアの身体が変にひきつれて、
夢はそこで終わったようで――気がついたら、今ここにいて。
――アナタの望み、叶えましょう。
――カタチのない望みに限り、いつもはできないことをひとつだけ。
……望みは自分のものでしょう。手出ししないで。放っておいて。
……たとえ、叶わなくても。「誰か」に甘えてみたい、「あいつ」に甘えてみたい、なんて。
……でも、叶わなくても。それは、私だけの望みなんだから。
疲れているのか、間近な気配に気付かないアルベルに。寝顔さえ整った顔にためらいながらマリアが手をのばした。無意識なのか、腰の手はそのままに反対がわの手が彼女の手を包んだ。
マリアは――微妙な顔をして、
……苦笑、する。
