細い腕がやわらかく彼の身体に回って。
しなやかに、締め上げた。

―― Eine Spanne Zeit

昼間のように、とまではいかないものの、二つの月が天を照らしている夜だった。見張り番はアルベルで、焚き火を前に彼は刀の手入れをしていた。黒くわだかまっている影は毛布に包まった仲間たちのもののはずだ。
どこまでも音はなく、焚き火のはぜる音と遠く虫の音、風の音。――かちゃかちゃと金属が時おり立てるささやきのような音、身じろぎするたびに衣擦れの音。
ほんのかすかな音だけしか、そこにはなくて。
マリアは静かに起き上がった。
仲間たちを起こしたくなかったというよりも、この静かな空間を壊したくなくて。そっと毛布をまとめると、足音も気配もひそめて、移動する。

◇◆◇◆◇◆

「!?」
静かに、どこまでも静かに背後から白い腕が伸びてきて、きゅっと儚く抱きしめられて。アルベルは動揺した。
気付かなかった。
刀の手入れをしていたとはいえ、彼の役目は見張り番。他のことならいざ知らず、こと戦いに関することに手を抜く彼ではないから、たとえ何をしていようが周囲の気配は残さず拾うはずだった。
ついでにいうなら、マリアは気配を消すことがあまり得意ではない。
もちろん少し前まで一般人だったらしい青髪のパーティリーダーには比べるべくもなく、必要最小レベルはクリアしているけれど。剣士として戦士として鍛錬を重ね続けてきたアルベルに言わせれば、まだまだ、といったところだ。
それなのに、そのはずなのに。
マリアの接近にまるで気付かなくて、気付くことができなくて。細い腕が彼をとらえるまで、触れるまで。彼女の気配を読み逃がしていて。
少しばかり自己嫌悪に陥ったアルベルは、ため息をつくと同時かすかにこわばっていた身体から力を抜いた。――実のところ、気配を読み逃がした理由はすぐにも思い当たったから。自己嫌悪を無理やり押し殺して、背後からただ腕を回す彼女にそっと意識を向ける。
「……どうした」
「ん、」
なんでもない、とゆるく首が振られる気配。ただ、完璧なまでに整った淡紅色の指先にきゅっと力がこもる。切なく抱きすくめられる。
「……」
ため息をついたアルベルは、それ以上マリアに何をすることなく、手入れ途中の刀に目を意識を戻す。

◇◆◇◆◇◆

――どうした、と静かに訊ねられて。
ぴくん、跳ねた身体にマリアはゆるく首を振った。
――何でもない、何でもないのだ。
――別に夢見が悪かったわけでもない。
――たとえそうでもそれはマリアの責任で、アルベルを巻き込むいわれなどない。
ただ、頭で分かっていても。ふっと淋しくなって、人肌が温もりがほしくなった。夢を見たわけではないけれど、なんだか不安がこみ上げてきて。ただ、温もりを求めていた。
それがアルベルだった理由は、深くはない。
誰でも良かった、温もりを与えてくれるなら誰でも良かったけれど。何となく、アルベルに心が引かれた。起き上がって仲間たちが寝ていて、見張り番の彼だけが起きていたからかもしれない。わざわざ誰を起こさなくても、見張り番のアルベルなら起きているはずだから。だから、かもしれない。
――もしかしたら単純に恋人だからなのかもしれないし、
――弱いところを見せたとしても、同類の彼にならそんなに気後れを感じない、からかもしれない。
深い理由はないし、あったとしてもマリアには分からない。ただ、アルベルに惹かれて、その温もりがほしくなって、迷惑かもしれない見張りの邪魔をするだけかもしれないと脳味噌の片隅が冷静にささやいても、一度思ってしまえば欲求は止められなくて。
――どうした、の一言が、なんだか泣けるくらいに嬉しかった。
――ため息一つで、ひっついているマリアを許してくれたのが嬉しかった。
――無言で、マリアの存在を弱いマリアの存在を許してくれたのが嬉しくて、
きゅうっと腕に指先に力を込める。灼熱のような彼の体温をすべて抱きしめたいと思う。人肌を、温もりを、彼の体温を。
感じていたいと思う。
――深い意味はなくて、ただ。アルベルにくっついていたい。

◇◆◇◆◇◆

――時々、マリアはこんな風にくっついてくる。
女心は複雑すぎて、戦い以外に頭を使う気のないアルベルは最初から理解しようとするのをあきらめている。努力を放棄するなと生真面目などこかの青髪の青年は言うけれど、無理なものは無理だ。たとえ理解しようと思ったところで、絶対に理解できないだろうというのは分かっている。
ただ、時々マリアはこんな風にくっついてくる。
それが女全般に共通するのか、マリアだけなのか。正直彼女以外の女はどうでも良いと思っているアルベルには判別できないけれど。
最初にマリアがくっついてきた時には、さすがのアルベルも驚いた。驚いて、考えなく訊いていた。けれど、
――何かしてほしいのか、といえば首を振って否定した。
――何かをしてもいいのか、といえば困った顔をした。
――何をしたところで抵抗しないことは、嫌がらないことは何となく分かったけれど。きっとそうしてほしいわけではないということは何となく分かったので、何もしないことにした。
時々、あくまで時々だ。数えていないけれど、少なくとも毎日とかそういう頻度ではない。
ただ、彼より強い女でも、時々は心細くなるらしい。心細くなって、誰かにかまわれたくなるらしい。ほんの少しの間でいい、言葉もいらない、ただ誰かと時間を共有したくて。
そうやって、――「ひとりではない」ことを実感したくなるのかもしれない、といつかマリアが、強いときのマリアが笑って言った。
その笑顔が、きれいだったけれどどこまでも淋しく、アルベルの目に映って。
そんな笑顔はいくらきれいでも見たくなかった。けれどそう言ったならマリアのことだ、極端に走って無理をすることが分かったから。誰よりも強いマリアが彼にだけ弱いところを見せるのは、そう、それは確かに嬉しかったから。
アルベルが、マリアに異物感を覚えなくなって。気配を消すことがあまり上手ではないマリアでも、彼女が気配を絶ってしまえばアルベルに見つけることができなくなって。どこにいても、たとえどこかに隠されてしまってもマリアを見付け出す自信のあるアルベルだけれど。唯一マリア自身が気配を消してしまえば、アルベルには彼女を見つけることができなくなっているように、
たとえばきっとそれと同じ意味で。
誰よりも強いマリアが、アルベルにだけ弱いところを見せるようになったのは、
――それは確かに、嬉しかったから。
だから、くっついてくるマリアをアルベルはかまわないことにした。彼からは触れない、抱きしめたりしない、何も話しかけない。この一時だけはマリアの好きにして、ただここにいてもかまわないと態度で示すことにした。
しばらくの間誰よりも儚い少女を独占できるのだと、そう思えばいっそ痛快だった。
理由はどうでもいい、ただ誰でも良いのにアルベルを選んだ、そんなマリアが愛しかった。

◇◆◇◆◇◆

手入れの終わった刀を鞘に収めて、アルベルは静かに息を吐く。背後のマリアは相変わらず、
けれどきっともうすぐにいつものマリアに戻るだろう。
ぼんやり見上げれば二つの月は変わらず輝いている。思い出したように風が渡って、虫の音もしばらくは途切れそうにない。焚き火の炎も相変わらず元気に踊っていて、黒くわだかまった影たちは身じろぎをしない。

◇◆◇◆◇◆

細い腕がやわらかく彼の身体に回って。
しなやかに、締め上げた。
――心、を。

逃げる気など、さらさらなかった。
ただ、いとおしいと、思った。

―― End ――
2005/09/25UP
アルベル×マリア
OFP
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Eine Spanne Zeit
[最終修正 - 2024/06/21-10:40]