小さな手が彼の手を包んでいた。
それは冷たくて、同時に。
――とてもとても、暖かいと思った。
「……っ、」
「……アルベル?」
眉を寄せた厳しい顔をするアルベルに、マリアは小さく声をかけた。最初から届かないと分かっているそれに応えはやはりなくて、気付いてしまった以上そのまま放置しておくこともできなくて。
どうしよう、とマリアは悩む。
――どうしたら、いいだろう。
それはもう「いつものこと」だった。宿で、あるいはこうして野宿をしているときに。一人離れた場所に休むアルベルが、ほとんど毎晩のようにとてもとても苦しそうな息を漏らすことは。
うなされているのだと、最初のことは気付かなくて。何か怪我を隠しているのだと思った。
思ったところで治癒術を使えない彼女にはどうしようもなくて、何もできないのに起こすのもどうかと思って、どうしたら良いのか困った。
――うなされているだけだから放っておけ、と言ったのは養父だっただろうか。
それが本当だと分かっても、分からなくても。結局彼女にできることは何もないと、誰よりも本人が分かっていたから。本当に悪夢にうなされているだけなら起こせば良いけれど、それはマリアにもできるけれど。うなされていることをきっと認めたくない、認めたところで他者に知られたくないと、アルベルなら考えるだろうから。男の意地と沽券とプライドがそういう答えを出すだろうから。
マリアには、それが分かってしまったから。
だからマリアは、こうしてうなされるアルベルを見るたびに、悩む。何をすればいいのか分からなくて、たとえ思い付いたところでそれをアルベル本人がどう思うかまで考えてしまって。
悩む、悩む。
……何か、を、したいのに。アルベルのために、何かを。
その奥にある感情からは目をそらして、ただマリアは悩む。
自分に何ができるだろうか、それが本当にアルベルの望むものだろうか。
端正な寝顔が悪夢に歪んでいて、そこから助け出したくて。
どうしたらいいのか、マリアはただ、悩む。
夢を見ていた。
悪夢を見ていた。
夢の中のアルベルはそれを分かっているのに、アルベルの身体はそれを知らない。何回もくり返された悪夢がまた今日も同じ脚本通りに進んで、結末を分かっているアルベルは目をそらしたいのに、アルベルの身体は凍り付いたように動かなくて。
――目をそらすな、と頭の奥がささやいていて、
――目をそらすな、父を、誰よりも尊敬する男を殺したのはお前だ。
――目をそらすな、忘れるな。お前が弱かったから無謀だったから己の力量をわきまえなかったから。
――だから父は死んだんだ。
――お前に、殺されたんだ。
目の前にくり返される悪夢、それよりも強く彼の心に傷を刻む鋭い声。目をそらしたくても耳をふさぎたくても身体は動かない。たとえ動いたところで冷たい声はそれを許さない。
父、だったカタマリが、スミになって彼の足元に転がる。
瞬きさえ忘れた彼の目に、そのカタマリが――別の誰かに、変わる。
夢を見ていた。
悪夢を見ていた。
夢の中のアルベルはそれを分かっているのに、アルベルの身体はそれを知らない。身体が凍り付いたように動かない。
はっ、とアルベルは目を醒ました。
夢と現実が混ざり合って、今がいつなのかここがどこなのか分からない。分かったのは夢から醒めた、悪夢から逃げ出すことができたということと、
――冷たいものが、人の手が。彼の手を握っている、ということ。
「……アルベル?」
どこか硬質な響きの声。夢から醒め切らない彼がゆるゆると視線を上げれば、冷酷で無感動な、整いすぎた女の顔。
「あ?」
小さく声を上げれば、それは掠れきっていた。情けなくて許せなくて舌打ちをしようとすれば、その舌さえ冷たく凍えてかわいてかたまっていた。
「どうかしたの?」
そんな彼に気付いているのかいないのか、女の顔はゆっくりささやいて。寝起きの彼の頭は言われた言葉がうまく理解できなくて、ただ手に触れた何かにきゅっと力が入って、ぼんやりと瞬く。
何となく視線をおろしてみれば、自分の手を見下ろしてみれば。小さな手が彼の手を包んでいる。
――なんだかやけに冷えた手だと思った。
――彫像のように整った顔と同じく、この手まで冷たい石でできているのだろうか。
思うけれど、石でできているにしてはこの小さな手はやわらかくて。冷たいくせに――けれどなぜか、とても暖かくて。
石、ではない。
確かに脈打っている。
のろのろともう一度顔を上げる。中腰だったらしい女はいつの間にか地面に膝を付いていて、だらしなく座り込んだ彼と目線の高さはほぼ同じところにある。
寝ぼけた頭はまだまだ働きそうになくて、
――それはとても悔しい反面、変に安心した。
この記憶は、残らないと思ったから。
無表情なくせにどこか心配そうに覗き込んでくるこの女の顔を、彼は覚えていなくてすみそうだと思ったから。
「…………」
「え?」
思ったから、彼は言っていた。相変わらず声は音にならなくて、目の前の女が困ったように聞き返してくる。その顔から目をそらすように、彼はぼんやり目を閉じる。
――先ほどの悪夢、最後、父だったスミが変わったもの。
――この女。
なぜ今ごろになって、何十回何百回とくり返されてきた同じ夢が、なぜ最近になって微妙に変わってきたのか。彼は知らない。慣れることのない悪夢がさらに苦いものになったのか、彼は知らない。
知りたくない。
理由は分からなくて、あの夢を現実に変えるつもりもなくて。きっと現実にはならないと、こうして彼の手を握る女を見れば、冷たく凍えた心がそんなことを思って。こうしてずっと手を握ってもらったなら、あの悪夢に引き戻されずにすみそうだ、と思って。
――お前は、死ぬな。
――俺の目の前から、死という形で消え失せたりするな。
――お前は、強いから。先に死ぬなら俺の方だろうけれど、そんな俺をかばったりするな。
そして、
――死んだ俺に関わり合いになるな、泣いたりするな。
――笑っていろ。
――俺のそばにいろ、だなんて言わないから。
――俺のために笑っていろ、なんて言わないから。
――ただ、お前は死ぬな。
どれを思ったのか、どれを言いかけたのか、それでもないのか。音にならなかった声は寝ぼけた彼にも分からなくて、ただ思う。
夢が変わった理由も、ただ一人の人間に、女に固執する自分も、そして思った泡のようにはじけたいくつかの思考も。ぎゅっと握られる手に力が入れば、どうでもいいと思う。そうやって、顔は無表情で目にも色を浮かべないくせに、そうやって動きで彼を心配してくれるなら。
十分だと思う、身にあまると思う。
そうまで気を使わせて、……すまない、とさえ思う。
思って、伏せた目に眠りから醒め切らないアルベルはまたゆっくりと眠りに落ちて。彼の手に触れたマリアの手は、それからしばらくどかなくて。今度はどんな夢を見ているのか、うなされているわけではないだろうけれど寄せられた彼の眉間に、
やわらかい祝福が、羽のようにひとひら。
小さな手が彼の手を包んでいた。
それは冷たくて、同時に。
――とてもとても、あたたかいと思った。
――凍った心さえ溶かしてしまうほど、とてもとてもあたたかいと思った。
