その瞬間見えたのは。驚愕したような痛そうなつらそうな怒ったような、――泣きそうな、そんな複雑な彼女の顔だった。
がつん、という衝撃と瞬時に暗転した視界。意識が暗闇に取り込まれるまでの刹那彼が考えていたのは、
――すまない、とかそういうことだった。

―― Nach Belieben

「……?」
アルベルはふと眉を寄せた。ぎゅっと寄った眉、動いた表情で自分が寝ていることに気がついて、気がついた瞬間かっと目を開ける。まるで暗闇に慣れた目で明るいところに出たときのように、かあっと白が、ちかちかと緑と赤がまたたいて。一瞬それで塗りつぶされた視界が、やがて少しずつ元に戻っていく。
そうして視覚が塗りつぶされている間にも身体は起きようとしていて、腹筋だけで起き上がって、――その身体の動きに血が追い付いてこない、特に脳内の血が追いついてこない不快感。ぐらりと平衡感覚がきしんで、気がついた瞬間には前のめりに倒れ込んでいた。
――血が、足りない。
「……何やってるのよ」
「っ!?」
冷ややかな声に、ようやくまともに見えるようになってきた目をそちらに向ける。予想通り青髪の女が、彼の恋人がそこにいて。いかにも不器用な手つきで果物の皮を剥こうとしているところだった。

◇◆◇◆◇◆

視界がぐらぐら揺れて、まるでそれに酔ったように気持ちが悪い。アルベルが一人むすっとしていると、マリアが不器用な手つきをふと止めた。
「――三日」
「あ?」
「三日間。……キミが昏睡していた期間のことよ。
分かっていると思うけど、先を急いでいるの。怪我人に言うことじゃないのは知っているけど、無駄な時間割かせないで」
そして休憩、気分転換はおしまいと再び果物を取ると、それこそ戦闘時に負けない真剣な表情でナイフを操りはじめる。見ている方が怖い手つきが果物を剥いて、当然のようにその皮には実がたっぷり付いていて、
ぴたり、いきなりその手が止まって、
「……何があったか覚えていない、なんて言わないわよね?」
どうやら何かをしながら何かをするのは苦手らしい。
無表情で淡々と、しかし怒っているらしいマリアにアルベルは身を起こして、立てた膝で頬杖をつきながら大きく息を吐いた。
「阿呆なこと抜かすな。……覚えてる。クソッ……、しくじった」
自己嫌悪でため息を重ねれば、自分を殺したい気持ちをそうやって誤魔化していれば、ぼふっと鈍い音が立って彼のいるベッドがかすかに揺れて。
そのベッドにこぶしを叩きつけたマリアは、すねたような顔から今度ははっきりした怒りに表情が変わっていて、
「キミは三日昏睡状態にあったの」
「……聞いた」
――いつもは無表情のくせに珍しいじゃねえか。
関係ないことを考えるアルベルに、彼女の怒りの表情はさらにきついものになって、――元が整った顔立ちだけにいっそう凄みがあって、
「最近手に入れたFD界の薬も! ディプロの医療技術も救護班の知識も!! まるで役立たずに昏睡していたのよ三日!
後頭部強打してその他の怪我もろもろで大量に出血していて!! 死にかけていたのよキミは! 三日間、生死の境さまよっていたのよ分かってるの!?」
「……こうして生きてるじゃねえか」

ぱぁんっ!
高い音が上がって、アルベルは頬を張られて勢い横を向いた。おとなしく殴られてやるような人種でもないので柳眉を吊り上げてマリアをにらめば、それ以上に殺気立った顔がぎりっとそんな彼を睨みつけている。
「生きている、ですって……?
当然じゃない、そのためにあちこち駆けずり回ったんだから。無理に無茶を重ねて、時間と戦って。死にかけた、九割方死んでいたキミをこっちに引き戻すために、あらゆる手段を施したんだから!!」
熱を帯びた翠が彼を睨みつけている。
「ここで簡単に殺してなんかやらないわよ……っ!」
「…………っ!?」
ぽろほろぽろほろ。きっと感情の高ぶりのせいだろう、マリアの目に涙が浮かんで、言葉の勢いに細かく散っていく。勢いでもう一度叩きつけられそうだった平手を掴みとめれば、小さな手は細かく細かく震えていて、
「死んだかと、思ったわよ……! 死んだかと思って、もうダメかと思って、すごく怖かったんだから……っ!!」
なめらかなラインを描く頬を涙が次々こぼれていく。

◇◆◇◆◇◆

――あの瞬間。
あの瞬間、狙われていたのはマリアだった。中遠距離が得意のマリアが、敵の数が多かったために周囲を周到に囲まれていて、今にも四方から攻撃を受けかけていた。
それを見て取った瞬間アルベルの脳裏から一切が消え果てた。
すぐさま地を蹴って、一撃目になんとか間に合って、それはどうにか抜身の刀ではじいた。二撃目はガントレットで受けて、しかし何か部品が噛んだのか左腕が動かなくなる。細かいことをしている余裕などどこにもなくて、だから刀一本、右腕一本で次々襲いくる攻撃を受けてはじいてときには反撃して。
最初から不利な状況にあれば当然、そのうちすぐにスタミナが尽きて握力も腕力もぐんぐん落ちていく。
覚えている最後、まだ数匹残っていた敵の間にまぎれるような小さなキカイ。
不吉な一撃を満身創痍でははじくことができそうになくて、だから、――

◇◆◇◆◇◆

「助けるなら……っ、助けるなら私もあなた自身も傷ひとつない状態で助けてみせなさい! それだけの余裕がないなら、私一人でどうにかするから! 私のことなんか気にしないで、いつもみたいにさっさと敵を片付けなさい……っ!!」
無茶を言って、無理と知っていながら無茶を言って。ゆるく首が振られて、涙が散っていく。きらきらきら、瞬間だけの宝石が散っていく。
――それをアルベルは、ただ黙って見ているしかできない。身体が動かない。
「身代わりで助けられても嬉しくないって、キミは知っているはずでしょう!?」
悲痛に叫ばれても、何も反応ができない。

先ほど掴み止めた小さなこぶし、そこに巻かれた包帯。細かく震え続けるそこに、彼女の心を見たような気分になる。
「……俺が、俺のしたいように動いただけだ」
「そんなの、分かっているわよ……」
一発食らったびんたが今ごろになってじんじん熱を帯びはじめて、それがなんだかうっとおしい。
「死なねえ約束も、お前を守りぬく誓いも、俺にはできねえ」
「そんなの、分かってる……」
よく見れば手だけではなく、あちこちにあるガーゼやら包帯やら絆創膏やら。死にかけたアルベルだけでなく、どうやらマリアもかなりの満身創痍で、
「怪我をしねえわけねえだろうが、それが俺の闘い方だ」
「……っ、」

――ただ、ただそれでも、
――それでも。
「それでも俺は生きてるし、お前も生きている。生きている限り、俺はやりたいように動く」
どれだけ怪我をしても、死にうなされても。それでもアルベルもマリアも確かに生きていて、それが、
――それが、嬉しくて。

◇◆◇◆◇◆

「……泣くな」
「知らない」
また何か怒らせたのか、彼を見ない翠が淋しい。血が足りなくて動きが鈍い身体が、もどかしくて腹が立つ。
動かない身体で、アルベルはマリアを抱き寄せる。
「泣いてんじゃねえ」
「知らない、わよ」
弱くて脆くてやわらかな身体は、そうして抱きしめてみれば確かに存在していてそれがなんだか安心した。動きが鈍いだけではなく力も出ない身体が、それでも勝手に力いっぱい彼女を抱きしめているのが自分の身体のくせになんだか笑えた。
世界中でただ一人、彼自身のためではなくて彼を走らせるだけの価値を持つ女が、
――この腕の中にいるのが、なんだか幸せで。

泣かせてすまないと思う。
笑わせてやりたいと思う。
思うけれどどうにもならないから、どうにもならない自分を知っているから。

アルベルは腕に力を込めた。
腕の中の脆い身体がかすかに身じろぎして、
――泣きながら、それでも。儚い力で抱きしめ返してきたのが、
嬉しい。

―― End ――
2005/10/19UP
アルベル×マリア
OFP
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Nach Belieben
[最終修正 - 2024/06/21-10:40]