――壁がある。
見えない壁が、……ある。
「…………」
アルベルは眉を寄せた。彼の前には壁。動かない、ただどっしりかまえている、壁。周囲に人の気配がないからその場で二、三度足踏みをして、それで彼はようやく、この「壁」が動かないらしいと思い当たった。
――まったく、よく分からない。
同じような壁に見えて、ただ模様がある壁に見えて、通りがかっただけで勝手に開く壁もあれば通りたいのにこうして動かない壁もある。
……というか、
「……どこだここは」
低く喉の奥でうめいて、それが彼の現状をこれ以上ないほどに示していた。
反銀河連邦勢力クォークの旗艦、ディプロ。アルベルの認識からすればどうやらマリアが船長らしい「星の船」にて。何度か訪れているのにいっこうに慣れなくて、今日もアルベルは艦内で迷子になっていた。
それはいつものことと言えばいつものことで、
これが彼なりの時間つぶしなのだと、最近ではパーティ一行およびこの艦のクルーは、そんな間違った認識さえしている。
アルベルは、とりあえず黙って髪に手を突っ込んだ。深い意味もなくかき混ぜて、ひとつ息を吐く。
――おかしい。
――そんなに広い艦ではないことは、今では彼もよく分かっている。
――というか、彼が行くことができる場所がずいぶん限られているだけだけれど、ともあれそんなに広い範囲をほっつき歩くことができるわけではないことは。
――分かっているのに。
「…………」
――確か、こっちから来て、と振り向いたところで。
遠くに、といってもたかが知れているけれど。ともあれ向こうの方に、見慣れた、むしろ彼が目当てにしていた人物が颯爽と歩いているのが見えた。けれど彼女はひとりではなくて。似たような年齢の、女が一人と男がふたり。まとわりついてなにやら話している。
「……」
それが、当人たちにとっては「いつものこと」なのか。真面目な顔をしたと思ったら、ふくれたり笑ったり。環の中心にいる、アルベルの知る限り表情が乏しい、といってもいいマリアでさえ、時おり顔をゆるめていたりして。
元から不機嫌だったアルベルの表情が、じわりゆっくりとがったものになる。いや、表情そのものはどんどん顔から消えていって、ただまとう雰囲気だけが。
立ち止まっていたアルベルと、じゃれながらのゆったりとした歩みの一団。一団の向かう方向が彼の方なら、当然距離は近くなっていく。
「――あら、アルベル。何かあったの? こんなところで」
「……別に」
そしてマリアが彼の存在に気がついた。彼女の声に、その内容に。四人の中に一人、露骨に顔をしかめた男がいたけれど、アルベルは気にしないことにした。
ちなみにマリアはそれに気付かないようで。
「……そうね、じゃあさっきの資料をお願いね。マリエッタ」
「分かりました」
「リーベルとスティングはまっすぐ持ち場に戻ること。余裕があったら彼女のサポートを、でも本分は忘れないように」
「了解ですリーダー!」
「……信用ないすね、リーダー」
そんな風に解散して、一人になったマリアはあっさりアルベルの前を歩いていって。ただし、行き去りぎわちらりと目が、ついてくる? と訊ねていて。
なにやら言いかけた、ついでに彼女をつかみ止めようとまでした先ほど顔をしかめた男を、残りのふたりが引きずっていく。パーティの年少組を連想させる、ぎゃーぎゃーとわめき声が、ゆっくり遠くなっていく。
そして。
「――また迷ったの? どうせそんな長時間いるわけでなし、おとなしく部屋にいれば良いのに」
「……るせ」
本人はどういうつもりなのか、とりあえずアルベルにはゆっくりの足取りで。どこかに向かう彼女の脇でだらだら歩きながら、いい加減耳タコの言葉に彼はうんざり吐き捨てた。
――断じて、迷いたくて迷っているわけではない。
――よく分からない、似たような景色ばかりが並ぶこの艦がすべて悪い。
思ったけれど、口に出すことさえ情けなくて。むくれた彼は、むくれたまま。ただひょいと手を伸ばした。その手はすぐそばの青い髪に包まれた頭を引っかける。まるでそれが当然のように、引き寄せる。
それほど小柄だというわけではないものの、やたらとか細いマリアは。たったそれだけで簡単に彼の胸に収まる。
「ち、ょっ!?」
目を見開いて、珍しく驚きの表情をあらわにして、じたばたもがいて。当然脚は止まっていて、先ほどのやかましい一団がいなくなればほぼ無人の艦の廊下に。
アルベルとマリア、ふたりの影がひとつになって。
「な、何するのよいきなりっ!?」
「……別に」
いつまで経っても暴れ続けるマリアが面倒くさくなって、手近な壁に腕で彼女を閉じ込めた。壁はどうやら無事「壁」で、逃げられなくなったマリアの顔は、怒りにか羞恥にか、すっかり赤く染まっている。
「別に、でこんなことするんじゃないわよっ!! いつ誰が来るかも分からないのに、キミは、」
言いかけた文句は最初から聞く気がない。やかましい口を塞いでやろうと思ったら、いきなりがくんとマリアが膝を折った。
そして彼の脇から、脇の隙間から逃げようとしたのを改めてつかまえて、もう一度壁に押し付ける。
「誰かに見られたら、どうするのよ!!」
「……るせえ。別にかまわねえだろうが」
「私はかまうのよ!」
いつもはすましている顔が、髪を乱してぷんとむくれていた。惚れた身にはくらくらする愛らしさに自然手が出れば、柳眉を逆立てて全力ではねのけてくる。
――壁がある。
見えない壁が、……ある。
「何、……キミね、ちょっとかまわれないからってこんなすね方、」
「そんなんじゃねえよ」
怒った、というよりはすねたマリアが。思わず手を出さずにはいられない、アルベルにとってそんな表情ばかりを浮かべるマリアが。ふっといきなり何か悟ったような顔をすると、やれやれと大きく息を吐いた。
「別に、仲間はずれになんかしないわよ。するつもりなんてないわ。仕方ないじゃない、わたしはクォークのリーダーやってるんだから。責任放り出すような真似、私が一番許せないんだから」
「そんなんじゃ、ねえ」
――見えない壁は、見えないくせに厚くて高くて。
越えるのはどうにも無理な気がするくらい、厚くて高くて。
今度こそ腕に閉じ込めた、暴れることをやめた恋人が。むしろ彼女から手を伸ばして閉じ込める彼の顔を両手で包むと、きょときょとと周囲を見渡して用心深く確認してから、
頬にひとつ。
「こんなときだけ、子供っぽい独占欲出すんじゃないわよ」
「……違う」
やわらかな両手がやわらかな動きで彼を引き寄せるから。素直に従ってやれば、
今度は額にひとつ。
――けれど、
けれど壁は。
壁は向こうからなら手が届くのか。
そもそも意識しなければ、存在しないというのか。
「責任は果たすものでしょう? ねえ、漆黒団長殿??」
「るせえ……」
そして今度は。……唇に。
祝福が、落とされて。
――壁がある。
見えない壁が、……ある。
けれどその向こうに待つのが、この優しくしたたかな女なら。
その「壁」を斬り崩してやるのも悪くないかなと。
それだけの価値は確かにあるのだと。
アルベルは思って、彼女と知り合ってからこの腕に閉じ込めてから、何度目かも分からない、――ただ改めて思って。
遠く異世界の、結局は理解できない世界に生きる、けれどやはりいとおしい女神を。彼を、彼だけを見て、今こうして困ったように微笑むマリアを。
ただ全力で、ただ抱きつぶさないように。
壁の向こうの女神を、壁の向こうからやってきた女神を。
切ないくらいに力いっぱい、
――抱きしめる。
