目の前が一気に開けたような気がした。

―― Ausser Sicht sein

ただ無言で早足で、部屋に入った。すり抜けたばかりのドアに背を預けて、そうしてわずかに上を向いて、
「……は、っ、」
のどをそらすように上を向いて、マリアは。
ひとつ苦しそうに息を漏らす。

◇◆◇◆◇◆

なぜだろう、ここのところ体調がおかしい。
体温が低くてけれど頭は熱っぽい感じがして、息が苦しくて身体がだるくて、身体のどこかに時々締め付けられるような痛みが走って、自分の身体なのにまるで自分の身体ではないような。
おかしいと思ったから、数日前にディプロに戻ったときメディカルルームで精密検査をしてみたけれど。コンピュータのディスプレイにはどこにも異常なしの文字しかなかった。脳内、内臓、大血管。それぞれ細かく部位に分かれて検査をしてみたけれど、やはり異常なしの文字しかなかった。
そうなると、データのない彼女の能力特有の不具合かもしれない。違うのかもしれない。
根本の原因が分からないと、個々の症状に対応する以外にどうしようもない。

◇◆◇◆◇◆

今も、食事が大体終わったあたりで急激な視覚狭窄に襲われた、世界から色が一気に消えうせた。ぞっと寒気が走って、食べたばかりのものがこうしている今だって胃の中で暴れている。息を吸っても肺がふくらむ感覚が薄くて、さらには呼気と吸気が変なところでぶつかっているような、そんな感じで息が苦しい、痛い。
――これはまずい、と思ったからマリアは。
そそくさを席を立ちながら適当な理由をでっち上げて、そして部屋に戻ってきたけれど。

◇◆◇◆◇◆

こうしてゆっくり、深く呼吸をくり返せば。
――きっと、大丈夫なはず。
気分の悪さも視覚狭窄もすぐに収まって、色を失った世界も元に戻って。寒気は服を着込めばきっとどうにかなる、胃がおかしいなら吐けばいい。変になった呼吸もこの深呼吸のくり返しできっと落ち着くはずだし、落ち着いてしまえば気道のこの痛い感じも、きっとすぐに消える。
大丈夫、――私は大丈夫。
この旅を、まだ続けることができる。
皆に迷惑をかけることないでいられる。

そんな風に思いながらただ深呼吸をくり返した。
その時がちゃりとドアノブが回って、あ、と思った瞬間には背中を――背を預けていたドアが開こうとして、がつんと身体に衝撃がくる。
「……ァ……っ!?」
「――あァ!?」
体調のおかしさで頭がいっぱいで、気配を読むことができなかった。反応が遅れて弱っていた身体に衝撃をまともにくらって、思わず悲鳴を上げていた。
ちんぴらみたいな品のない声から、きっとアルベルだと思う。
……よりにもよって、一番面倒臭い男だなんて。
余裕のない脳のうち、片隅がそんなことをつぶやく。まるで切り取ったように冷静なことを考えるこの片隅が、なんだかうらやましくて腹立たしい。

◇◆◇◆◇◆

そして衝撃に思わず床に倒れこみそうになりながら、力の入らない身体を、それでも脚に無理やり力を入れようとしながら、
「何の、用?」
声は、震えていなかっただろうか。かすれていなかっただろうか。
ドアにもたれかかっていても、なんとか立っているこの高さならばれないでいられるだろうか。不機嫌に、不器用に。きっとマリアの体調不良を知ったなら、世話をしないまでも注意を向けてくるだろう律儀な男に、ばれないでいられるだろうか。
――そんな男に、すがらないでいられるだろうか、自分は。
「……何やってやがる阿呆」
ドア越しの声はいつもどおり不機嫌そうで、けれど気付いているようには思えなくて。だから音もなく安堵の息を吐く。そのまま懸命に、荒いままの息を整えようとする。
「別に、なんともないわよ」
「だったらこれ開けろ」
「いや」
鏡を見ていないから分からないけれど、きっと今の顔色は最悪だと思ったから。だから見えないと知っていたのに首を振った。
血が追い付いてこなくてくらくらして、そんな自分が馬鹿だと思った。

「いろいろあるのよ……気にしないで、戻りなさい」
「あ?」
「――血が足りないのよ」
「…………」
下品な理由を口にして、馬鹿な自分がいっそう馬鹿だと思う。けれど男性を説得するのに、これ以上の理由が思い付かなくて、今の余裕のないマリアの脳には思いつかなくて。
予想通り沈黙するドア。いまだに収まりきらない先ほどの衝撃と、最初から彼女を襲っていた原因不明の体調の悪さ。結局ドアにもたれかかったまま、マリアあえぐように深呼吸をくり返すしかない。それだけしかできない、それだけで手いっぱいで、

◇◆◇◆◇◆

きっと何かを言おうとして、けれど結局何も言えないアルベルが、見えるような気がする。ためらってためらってためらって、誰もいないから素直にまごついているのが見えるような気がする。
あの、傍若無人で自分しか見ない男に、それだけの注意を向けられた自分がいっそ誇らしいと思う。
弱った身体が、馬鹿な脳が。そんなことを思う。

――心配してくれてありがとう、と言えば、そんなんじゃねえよと否定するだろう。
――明日には回復しているから、と嘘になるかもしれない自分でも確証のない言葉は言いたくない。
――戻りなさい、とは、弱った今ドア越しにも人の存在を感じたいから言いたくなくて、
――それ以外は、何も思い付かなくて。

◇◆◇◆◇◆

「……たまには、頼れ」
ぐるぐるぐる、混乱するくらい頭がいろいろ考えている。いろいろ同じことだけ考えている。どうしようもなく情けない自分を罵倒したくなったマリアに、その時。
アルベルの声が、聞こえて。

なんだか目の前が一気に開けたような気がした。
なぜだろう、そんな感じがした。

何気ない言葉、いつもとは言わないけれど時々聞いていただろう言葉なのに。アルベルからではなく、養父から青髪のパーティリーダーから赤毛の女隠密から。何度となく言われた言葉なのに。
その時、その言葉はなぜかマリアの視界を開く、不思議の呪文だった。
視界から追い出していた、視界にはなかった何かを、気付かせるような言葉だった。

驚きで、きっとそれが引鉄で限界ぎりぎりいっぱいいっぱいだったマリアの身体から力が抜ける。床に崩れそうに、倒れこみそうになる直前、ドアの開いた音を聞いたような気がする。
信じられないほどやわらかく、何かあたたかいものに受け止められた感じがする。

――ああ、そういえば。
――気配を読めば、隠し通せると思ったあれこれもばれるかも。
いつだって頭の片隅にある、冷静な部分がささやいて。
マリアの意識が闇に染まる。
その直前、呆れか安堵か、何か降る息を受けたような。
……そんな感じが、した。

―― End ――
2005/12/17UP
アルベル×マリア
OFP
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Ausser Sicht sein
[最終修正 - 2024/06/21-11:02]