こんな心、知らない。
こんな心、いらない。
そんなことをつぶやいて、ただその翠の目だけが。何よりも雄弁に、彼女の心をきっと示していた。
別に、何か話しかけなければならない何かがあったわけでもないけれど。
「……何かあったのか」
「何もないわよ、いちいち絡んでこないで!」
何気なくかけた声に対して、その台詞こそ絡んでくるものではないのか、勢い良く振り向くことで青髪を翻した女はヒステリックに叫んだ。叫んでから自分の声に驚いたように片手で口元を覆って、何度かまたたいて。そして口元の手を外しながらゆっくり首を横に振る。
わけが分からずに表情を変えないまま、ただ瞬くアルベルに少しだけ肩を落とす。
「……違うの……悪かったわ、いきなり叫んだりして。
大丈夫、何もない。キミが何をやらかしたわけでもなくて、私も怪我を隠しているとかの体調不良でもない。だから気にしないでもらいたいんだけど」
――大したものだ。これが彼だったならたとえば勢いの言葉にまずいと思ったところで、勢いに任せて捨て台詞でも残して、逃げるのに。
口早に言う彼女に、いいわけだと知っていても妙に感心して、うなずいてみせる。それに安心したようにふっと息を吐いた女が足早に立ち去るのを見るとはなしに見送った。
結局わけが分からないままで、どうやら何かにマリアが腹を立てていることしか分からなくて。けれどだからといってそれはどうということもないはずで、気にするほどのことでもない。分かっていてそれでも変に焦燥感に駆られるけれど、
結局は全部無視して、アルベルは彼女の去った方向に背を向ける。
彼女と知りあって、元は敵だったやつらといやいやながら協力するようになって、長いというほどでもないけれど数える気がなくなるくらいの期間は一緒に過ごしていた。最初は確かにそういう命令で気が進まなかったのに、気がつけば「仲間」と一緒にいる空間は嫌なモノではなくなっていた。
何より彼女と共に過ごす時間は。むしろ、彼にとって好ましいものになっていて。
「……だから何だその顔は」
「何よ人の顔に文句付けたかったらキミこそもう少し愛想とか社交辞令とか身に付けたらどうなの」
……その好ましいはずのマリアに、ここしばらくすごく嫌な顔しか向けられていない現実に、アルベルは苦々しく息を吐く。
今までなら不機嫌さを爆発させて怒鳴って、いや、怒鳴り合いになっているところだろうけれど、なんとか彼もそこいらへんは「学習」した。――というか、彼女を怒らせると自分があとでものすごくひどい目に逢うことは、学習しないではいられなかった。
それはともあれ。
ここ数日、なんだかんだと骨休めで町に滞在していて、そうなるとほとんどなし崩しに自由行動で仲間たちとはせいぜい食事のときくらいしか顔を合わさない。泊まっているところは同じなのだから偶然廊下ですれ違うこともあるし、町から出るとなったら伝言くらいは来るだろうけれど、一緒に行動している時と比べれば驚くほど直に会っていない。
そしてその、数少ない顔を合わせる機会のことごとく、マリアは彼に敵意のこもった目しか向けてこない。
わけが分からない。いや、通常旅に出ている間なら戦闘のたびに無茶をして敵に突っ込んでいくアルベルを叱る意味で、特に女性陣からこんな目を向けられる。それでもここ数日はあくまで町の中で、アルベルも稽古とか訓練以外に得物をふりまわす機会がない、のに。
だから、余計にわけが分からなくて。
「何を怒ってるんだ」
「何も怒っていないわよ、いいがかりつけないで」
「眉間にしわ刻んで目ェ吊り上げて、それでそう言うのか。
……滑稽ってヤツだな」
「……喧嘩を売ってるの」
「てめえの目付きがそうじゃねえか」
どんどん険悪になる空気にうんざりするのに、いつでもぽんぽん小気味良い返答をするマリアとの会話を、せめて穏便な方向に楽しみたいのに。たとえば関わらないように背を向ければ、これ以上お互いの気持ちを悪い方向へ向けなくてすむと分かっているのに。――逃げるアルベルを、わざわざ追って文句を付けるマリアでもないだろう。
分かっているのにどうしても会話を打ち切る気になれなくて、どんどん仏頂面になるマリアとそれこそ喧嘩腰の会話が進む。
食事はまだ途中あたり、マリアの皿にも自分の皿にもまだ料理がたっぷり残っている。これがなくなるまで自分はこの席を離れるつもりはないし、たぶんマリアもそうだろう。きっとそうだ。
――彼女の食事量は、いつも以上にずいぶん少ないものだから。きっとそんなに時間があるわけではないにしても。
「何だ、また先を急ぐにとかどうとかフェイトに腹立ててるとかか?」
「そんなんじゃないわよそりゃ確かに急ぐけど。気乗りしないメンバー無理に引っ張って、それでどうにかなるような旅じゃないわ」
「体調不良じゃねえっつったな。じゃあアレだ、夢見が悪かったとか、」
「全部自分の常識に当てはめないで。あいにく私、そういうの引きずらないタチなの。
……いえ、そうじゃないわね。もしもそういうのに引きずられるなら、ちゃんと自覚してわざわざこんなところに顔出さないで、部屋にルームサービスでも頼むわ。そうすれば変な言いがかり付けられてこうやって腹を立てずにすむし」
「言うじゃねえか、別にこっちだっててめえいちいちからかう趣味ねえよ。揚げ足取るならもっと楽しめるのが他にいる」
――もっと素直に反応する人間はパーティ内にことかかない。
流れで言ってみたなら、彼女の細い眉がぎりっとつり上がった。今度は無言で、ただ椅子をがたんと蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。そのまま無言で歩き去ろうとする。
別にあわてたわけではないけれど、何となく勢い同じように立ち上がってしまってその後を追った自分がいて。
何かまずいことを、たぶん決定的な何かを言ってしまったらしいことは分かったものの、しかしアルベルには結局よく分からない。
腹を立てるべきは、アルベルだ。
彼に非がないことは、基本的にマリアも認めている。喧嘩腰の会話が進むにつれ日ごろの行いが悪いとか言われるけれど、それ以前、現状彼女が腹を立てている原因にアルベルは関わっていないと本人が保証している。
大体、ここ最近の事態にまるで付いてくることができずに、ただ「あれ、敵だから」の言葉にとりあえず得物を手に突っかかっていくことが日常で。そんな現状にたぶん一番腹を立てておかしくないのはアルベル本人で。もしくは彼の他にもう一人、彼と同じ「星」出身のあの女隠密だけで。
だから腹を立てるべきはアルベルで、マリアはむしろそれをぶつけられるべきなのに。
互いに、仲間の誰もがそう思っているのに分かっているのに、今ここで怒髪天を衝く勢いはマリアで、むしろそれをなだめたりからかったりしているのはアルベル。
――普段を考えても、まるで役割があべこべだ。
「知らないわよ好きにすればいいじゃないあんたが誰をからかおうが私は知ったこっちゃないわよ! むしろ私に関わらないでよいちいち鬱陶しいわね!!」
「何キレてんだよ阿呆」
「どうして私に関わるのよほうって置けばいいじゃないあんたに話しかけられなきゃ私だって神経質に怒鳴らずにすむのに! なんだかむかむかするこんな気持ち、知らなくてすむのに!!」
あんた呼ばわりされて、珍しく感情をあらわに怒鳴るマリアが、まるで新鮮なもののように物珍しいもののように見えた。感情にきっと引きずられて浮かんだ涙で、きらきら光る目がなんだかきれいだと思った。
まったく、あべこべだ。
いつも感情で怒るのは彼の方なのに、冷静にそれをたしなめるのが彼女なのに。
「誰のとこでも行っちゃえばいいのよ!! ばか!」
言った自分の台詞に驚いたように目を見開くのは、――ああ、なんだか既視感がある。
思って、なんだか手がのびていて生身の右手が彼女の頬を包んでいて。たぶん驚きの意味を変えた翠がまっすぐに彼を見上げて、言葉の勢いに乱れた呼吸がふとゆっくり穏やかなものになっていって。
そんな些細なことを、なぜだかこと細かく探ってしまって。
――「どこか」ではなく「誰か」を言うあたりが彼女らしいな、と。
――なんだこれはひょっとしたら、彼にとって都合の良い妄想とか思い込みとか勘違いかもしれないけれど、それでももしかしたらこれは。
――思い付いたそれに期待をしてしまうあたりに「好ましい」以上の感情をひょっとしたら彼も、いやそうではなくてとりあえずこれは、
――もしかしたら「嫉妬」とかそういう感情なのだろうか。
――この女が自分に対して、そんな感情を抱いたのだろうか。
――抱いて、くれたのだろうか。
――こんな心、知らない。
――こんな心、いらない。
そんなことをつぶやいて、ただその翠の目だけが。何よりも雄弁に、彼女の心をきっと示していた。
手の中にあるやわらかでなめらかな感触に、どこかすねたような潤んだ翠に。
――そして彼の心が、惹き付けられる。
