うとうとと夢うつつに微笑む顔で。
けれど、彼女がくちびるに乗せる言葉は。
さらり、と。音にするならそんな空気の動きにふとまどろんでいたことを知った。重いまぶたをこじ開けて、そこに広がっていたのは深い深い海の色で。聞こえた音はこれが流れる音だったのか、それとも肌にシーツがすべる音だったのか。
どうでもいい、けれど。再び眠りに落ちるのもなんだかもったいないような気がして、広がる青に何となく手をのばしてみた。ひとふさとりあげて、指にくるりと巻いてみる。なめらかなそれは力を抜いたなら抵抗なくほどけて落ちて、ぼんやりとしたまま、もう一度同じことをくり返そうとして、
「……アルベル……?」
至近距離に翠が生まれ、ゆっくりと瞬いた。そろりと持ち上がった細い指が、彼の手になにげなくふれる。ぼんやりと瞬いて、そして微笑んだ。
たぶん彼の口角もつられて持ちあがる。
「――死に損ねたみてえだな」
「……まだ死ぬわけにいかないわ……」
白い白いシーツの海、白い白い包帯をそこかしこに巻きつけたマリアが、けれど場違いにおだやかな表情でゆっくりと瞬く。見るとはなしにそれを見ながら次第にはっきりしてきた頭で、アルベルはたった今自分が吐いた言葉を反芻して――そして思いきり顔をしかめた。
旅に、出ていた。事態は彼の把握を軽くこえて回り続けて、今の彼にはただ襲い掛かってくるバケモノどもを、次第にしぶとく手強くなっていく敵をただ斬り伏せ叩き伏せる、そんな日々が続いていた。理解できない話に苛立ちを覚えながら、けれど手ごたえのある敵を心底歓迎する、そんな日々が続いていた。
そして、今日も。
何かの罠でも起動させてしまったのかもしれない、今なら思う。行く手がわからぞろぞろとあきれるほどの団体が押し寄せてきて、肌が粟立つ殺気に、気付いたら抜き身の刀を片手に駆け出していた。赤い色がはねるようにそんな彼を飛び越えていって、両脇に、やはり得物片手の青髪と金髪。背後からは呪紋のごにょごにょした声。
位置的にそのカタマリの中間あたりから、まず光線が走って。
乱戦になった。
くり出される白刃を避け、あるいは致命傷にならない程度に受けてはそれで向こうの動きを止めて、隙をついて斬り伏せる。倒れこんだ敵に刃を突き立てて、けれどとどめを刺したか確認もできないままに次の敵が襲い掛かってきて一歩脇に避けた。
最初から数える余裕もなかった敵は限りがないようで、こちらの体力精神力には限界があった。時おりあたたかい光が傷を癒し、投げ渡されるアイテムで体力や精神力を回復させ、その場に崩れ落ちた仲間は蹴り飛ばす勢いで背後に下がらせる。
やがて思考に身体の動きがついてこなくなった。左の鉄爪はこんなにも重かっただろうか。握力が落ちて、刀を振るたびに手からすっぽ抜けそうな気がする。そもそも手入れを欠かしたことのない刃は、今現在刃としての機能を果たしているだろうか。息がつらい、身体が熱い。本当に敵だけを斬っているかどうか、実は自信がない。
倒すべき存在はあとどれだけ残っているのだろうか。
味方は自分以外に何人立っているだろうか。そもそもいま自分はちゃんと立っているのだろうか。
身体に巻きついている炎竜の刻印が、ああ、好き勝手に暴れ回っているような気がする。
戦い後半の記憶は、断片的できちんと思い出せない。最後まで闘ったのか、よもや途中で逃げ出したのかさえも分からない。そもそもここがどこなのかさえ知らない。
これだけ丁寧に手当てがされている以上、捕虜になっているとは思わないけれど。
彼が思い返している間、怪我のためか薬の影響か、眠そうにゆったりと瞬いていたマリアが、ふと小首をかしげた。
「そういえば、フェイトとソフィアは?」
「知らん」
「……そう」
何気ない質問に、何気なく返す。それきりマリアは再び黙り込んで、ふと覚えた違和感に今度はアルベルがうなり声を上げる。
「……他のヤツは心配してやらんのか」
「そうね、……でもクリフが大怪我って笑い話にしか思えないし」
「あ?」
「ぴんぴんしているかくたばっているか、そんな風にしか想像できないの」
「そうか」
あまり納得できていなかったけれど、興味がなかったのでそこで打ち切った。
起き上がってぐるりと室内を見渡す。白い。壁も天井も、床までもが白で統一されていて、ひどく落ち着かない気分になる。ベッド以外に何もないために広いようで、その実大して広くもない部屋にはベッドが二つ。どんな部屋割りなのか、それとも何かの意図があるのか、アルベルとマリアしかいない。たとえば誰かが隠れるようなスペースは見当たらないから、確かに二人きりなのだろう。
ざっと見た限り、二人の包帯の巻かれた面積は何も巻かれていない部分よりも大きいので、そういう意味で一緒くたにされてこの部屋に押し込められたのかもしれないな、と。
そんなことを思いながら、そういえば先ほど目が醒めた時に夢うつつで自分のベッドから抜け出しマリアの方にもぐりこんだことまで思い出して、ザマねえなと自嘲した。
身体が傷ついてこころが弱っているらしい。この俺が女にすがりつくなど。
「――だって、私たち三人が誰か欠けただけでこの闘いは負けだもの」
「あん?」
いつもの鋭さを欠いた、透明で儚い雰囲気のマリアに思考を断ち切った。寝惚けているのかもしれない、あるいは怪我からきた発熱で朦朧としているのか。ほわほわとした、普段の彼女には似つかわしくない表情が、笑みさえ浮かべたまま、続ける。
「あいつらが私たちをつぶしたいなら、集中して私たち三人をどうにかするだけでいいわ。たとえば、やつらならウィルスを送り込むことも可能じゃない。いつか克服できるウィルスだとしても、もしもそれにわたしたちが誰か罹ったなら、それで死んだりすれば、もうわたしたちは奴らに勝てない――この世界は滅びるわ」
それこそ、この会話を誰かが――マリアのいう「やつら」が聞いていれば、まずいことこの上ないことを。熱っぽい目はうわごとを口走っているのと同じ印象で、ああ、本当に高熱でなかばうなされているのかもしれない。
思って、無言で触れた額は想像通りに熱かった。
「もういいから寝ろ。なんだったら医者でも呼ぶか」
「アルベル、あなたがアーリグリフからいなくなってあの国はどうなるかしら? 漆黒の団長、だったわね。混乱はするでしょう。でも、あなたがもう二度と戻らないとしても、国そのものはなくならない。いつかかわりの人材が後釜に座れば、きっと問題はない。あなたとまったく同じことはできなくても、きっとなんとかなる。
でも、わたしたちの場合は。――誰が欠けても、誰もフォローできない」
手っ取り早く黙らせたかったのに、彼の心遣いは無視された。夢になかば落ちかけながら、それでもなぜか口元は笑みを刻んで、マリアの言葉が途切れない。
「繋ぎ、変換し、破壊する。私たちのかえは、この世界のどこにもない。
心配するな、なんて無理よ。私は私に執着できないけど、この世界を消すことは、もっとできないんだから」
「――黙れ」
強くてもろい女に出逢って、そして――認めたくないことながら、惹かれた。凛とひとり立つ姿も、強がって微笑む弱さも、たぶん彼が求めていた理想にきっととても近かった。
はりつめた糸のような柔軟性のない危うさから目がはなせなくなった。表面だけではない、真実彼女が微笑むことのできる世界があるなら、今の世をそれに変えてみせようとさえ思った。
強烈に惹き寄せられた、その理由は今も分からない。分かる気などない、分かりたくない。
ただ。――今のマリアがひどく危ういことは感じ取れて。妙な焦燥感にせき立てられて、そうだ、別に黙らせたかったわけではない、ただ、今にも消えそうに儚い女を引き止めたい、その想いだけで。
ひどく重い、動けば痛みのじんと広がる腕を懸命にのばした。
彼には理解できない、けれど笑顔で絶望を語る細い女を力の限り抱きしめる。
「……アルベル……?」
「もういい、寝てろ。おまえが心底死にたいなら、俺が引導渡してやる」
「ふふ……馬鹿ね。死ぬわけにはいかないって、言ってるのに」
「死にたくないなら、そう言えっつってんだよ。単なる義務なら、今殺す」
「…………ばか……」
事態は分からない、何も考え付かない、敵と戦うしかできない。ああ、確かにこんな自分はかえの効く単なるコマだろうけれど。けれどマリアが義務に縛られているから、とそれをいいわけにしたいのなら。
苦しくて苦しくて、苦しみから逃れたくて、けれど生きなければならなくて苦痛がどこまでも続くというのなら。
やはり現実味のないおだやかな顔が。
「――……」
何かを告げて、それを意識する前に口が勝手に応えていて。
白い白い、白の中。ただ青を抱えて。
すとんと意識を失ったマリアの後を追うように、アルベルの意識もやがて闇に沈んでいく。
ただ腕の中にあるモノを、確かに抱きしめたまま。
その感触をいとおしみながら。
