「……あ」
間の抜けた声が聞こえた。瞬間、言いようのない悪寒に襲われたアルベルは、モンスターの爪をがっきと受け止めた鍔迫り合いの状態から、ほんの少しだけ身を捩る。
……とすっ。
「ぎゃうぅぅぅううううっ……!!」
飛んできた短剣がぎりぎり彼の頬をかすめて、対峙していたモンスターの喉にさっくりと突き刺さった。
「……てめえは、……っ!」
戦闘終了後。モンスターに突き刺さった短剣を回収するネルにアルベルは詰め寄った。
頬が血でべた付いている。ぴりぴりとかすかな、しかしうっとおしい痛みが貼り付いている。あの時もしも身を捩らなかったら、頬が薄く裂かれただけではなく多分耳が削げていた、と思う。
「……てめえ俺を――」
――殺す気か!?
そう続けようとして、――しかしアルベルは言葉に詰まった。
……ありえそうな気がした。
たまたま現在はアーリグリフとシーハーツが休戦協定を結んでいて、だからこそ同じパーティで、こうして肩を並べてモンスターをぶち倒しているものの。ほんの少し前まで、いがみ合い憎み合っていた国の将同士だ。
戦闘中の不慮の事故を装って、彼の首を取ろうとすることもあるかもしれない。
アルベルは、以前牢で向けられた、あのものすごい目付きを思い出す。
凄惨で陰鬱で、鮮麗で苛烈な目だった。隠そうともしない殺気に、逆にすがすがしささえ覚えるほどの。まっすぐな目が感情のあらわなそれが、アーリグリフ上層部での腹芸に飽きた彼の目には――ひどく美しく映ったことを思い出す。
だから。
「てめえは……」
――俺が、憎いか?
そう訊ねようとして、答えの分かりきっている問いに馬鹿馬鹿しくなった。
憎いに決まっている。自分よりも他者を優先する、真面目で堅物で融通のきかないこの女のことだ。アルベル自身は覚えていない、戦争その他で彼が殺し踏み付けてきたシーハーツの誰かのことで、今だってきっと彼を憎んでいる。
……答えなど分かりきっている。
結局何も言えなくなって、アルベルは言葉にするはずだった空気を吐き出す。
「――悪かったね」
「あ?」
どうでも良くなったアルベルが踵を返そうとしたところで、血を拭った短剣を鞘に収めたネルが声をかけてきた。わけが分からなくて目を向けると、憮然とした決まり悪そうな顔が、意地でも目をそらすものかと彼をにらんでいる。
「……喧嘩でも売ってんのか」
「人の言うことは聞くもんだよ。悪かった、って言ってるんだ。
――さっきは、血で、手がすべったんだ。すっぽ抜けた先にあんたがいて、だから……」
言い淀んで、堅い顔で唇を舐めてから、すっと手が伸びる。それで触れるという距離ではなく握手とかいう距離でもなく、ただてのひらが向けられただけ。すっと目を細めたアルベルが口を開きかけたところで、
「……ヒーリング」
頬をはじめとした、全身の、無視できるもののうざったい痛みが一気に遠くなる。
「……阿呆」
「うるさいね」
怒りにか照れ臭いのか、ほのかに頬を染めたネルがずいぶん幼く見えて、アルベルはかすかに口元をゆるめた。
が。
――話はそれだけでは終わらなかった。
「あ」
「っ!?」
戦闘のたびに似たようなことが立て続けに起こった。
ネルの手からすっぽ抜けた得物は、そのたびごとになぜかアルベル目指して飛んでいく。ぎりぎりで何とか避けてはいるものの、詫び代わりの彼女のヒーリングで怪我は癒されるものの。やはり事故を狙っているのだろうかとアルベルが疑うのも無理はないほどに、たて続けに。
ちなみに。パーティのメンツはどうやら誰も気付かないらしく、何も言ってこない。
で。
「……っ、避け……」
「いい加減にしろ阿呆が!! 一体何回目だてめえ!?」
今日の食事当番ネルの、キャベツを刻んでいた包丁が飛んでくるに至って、武器の手入れをしていたアルベルは怒声を上げた。指で挟んで止めた包丁がわなわなと震えている。
せめて殺気でも混ざっていれば楽なのに。本当に偶然なのか、完全に殺気を押し殺しているのか。どちらにせよ飛来するそれに悪意はないので、ただ何となくの気配を察して避けるしかないのが、アルベルには無性に腹が立つ。
それが戦闘中ならまだともかく。特に今など、料理途中の女に誰が注意など向けるだろう。そこそこの料理の腕を持つ人間相手ならなおさら、誰も自分目指して刃物が飛んでくるなんて考えるはずがない。
アルベルは奥歯を噛みしめる。
キャベツまみれの包丁で刺されて死んだとあっては、アルゼイとウォルターあたりに末代まで指差されて笑われる。それはもう確実に。
「……何のつもりだ。俺を殺したいなら直接かかってこい、まだるっこしい事故なんか装うんじゃねえ」
エプロン姿のネルがその台詞にむっと顔をしかめた。
「陛下の命があるのに、あたしの独断で勝手にあんたを殺すなんてできるはずがないじゃないか。見当違いで怒ってないで、包丁返しな。今回は別に怪我もしてないだろう」
「そういう問題じゃねえだろうがっ! 俺に恨みがあるのは分かってんだ、こんな嫌がらせしてねえで直に向かって来いっつってんだよ!!」
「だから、勝手に思い込んで怒鳴ってんじゃないよ!
そりゃいちいちあんたに迷惑かけてるのは悪いと思うけど!! 仕方がないじゃないか、別に狙ってるわけじゃないんだし!! ていうより、なんであんたいちいちそういう場所にいるのさ!?」
「……あぁ!?」
胡座をかいて、やはり包丁を指にはさんだままのアルベルにネルが詰め寄る。お互い口元に薄く笑みを浮かべて、子供が見たら一発で泣き出すこと確実の剣呑な空気が一気に広がる。
仲間たちは、しかしなぜかこちらに気付かない。
ぐっとさらにアルベルに詰め寄ったネルが、がっと包丁の柄を掴んだ。包丁から手を離したアルベルが、そのネルの顎を捕らえる。至近距離の瞳はやはりまっすぐで強くて、怒りを含んでいた方がこの女の目は魅力的だと、アルベルの頭の片隅がつぶやく。
そのままの勢いでなんとなく唇を寄せようとして、
「……っ!」
ぐさ、などという馴染みのある物騒な音にさすがにアルベルは動きを止めた。至近距離から彼の頚動脈すれすれのところに手にした包丁を投げ付けたネルが、その一瞬の硬直の隙をついて握りしめたこぶしをくり出す。
「何しようとしてるのさ、冗談は顔だけにしな!!」
一気に真っ赤になって、なんとかぎりぎり触れなかった唇を手の甲でこするネル。
その反応の幼稚さには笑えたが、利き腕ではなくても鳩尾、急所に一撃喰らえばさすがに痛いし苦しい。かすかに顔をしかめたアルベルが、しかし不意にすっと目を細くした。
――違和感。
彼を警戒しながら床に突き刺さった包丁に手を伸ばすネルの、その細い手首を掴む。ひくりと震えてから放たれた蹴りは逆の腕に受け流しておいて、そしてアルベルは――低く唸った。
「……阿呆」
「あ、アホはあんたじゃないか!! 離しな、こっ、の……!」
手首を捕らえる手に少しだけ力を入れる。ネルの顔がほんのかすかに歪む。
「……はな、せ、……この、馬鹿力……!!」
それがことごとくアルベルに向かった理由は分からないものの、今日やたら彼女の手から得物がすっぽ抜けた理由は。やたら彼女が得物を手放した、取り落としてしまった理由は。
「阿呆」
料理のために外した手甲、なめらかなラインを描く白い肌が、なめらかなラインを描きながらしかし不自然に腫れている。確かに熱を持っている。直接そこに触れているわけでも指の痕が残るような力を入れているわけでもないのに、響く痛みにかネルの息が上がりつつある。
「他人の世話焼く前にまずは自分の体調をどうにかしろ。骨は折れてねえが、……炎症起こしといてまだ強がるのかてめえ」
いつ何が原因でそうなったかアルベルが知るはずもないが、利き手が炎症を起こしていたせいで握力が落ちたらしい。治癒の術を使えるネルがなぜすぐに癒さなかったのかアルベルには分からないが、きっと大したことはないとかすぐに治るだろうとか思い込んで放置していたに決まっている。
無理をした結果、炎症は治らずにありえないほどの頻度でもって得物を取り落とした。
「何、の、ことだい……? ――っ、……」
「――……」
まだ認めようとしないネルの手首を掴んだまま、アルベルは無言で指を伸ばして、彼女の手の甲、腫れているところを軽く撫でた。びくん、身体全体が大きく跳ねる。きゅっ、眉が寄る。
「ぅ、あ……っ、……く、」
かすかな悲鳴。切なそうなつらそうなその表情が、妙に艶めいて見える。歯を食いしばって突然の痛みに耐える、その顔がやけに扇情的に見える。
アルベルが軽くネルの手を引いた。バランスを崩した彼女が結局胡坐をかいたままの彼に引き寄せられ――、

「おいまだか? 腹へ……」
バール山脈の一画、一行が今日の野営地に決めた場所。廃屋同然のそこにクリフがいきなり顔を覗かせた。何かを言いかけていたのが、「それ」を見て言葉を切る。
なんだか凶悪な目をしたアルベルがリアクションを起こすよりも早く、我に返ったネルの短刀、柄頭がその後頭部にめり込んだ。声もなく突っ伏したアルベルを無視して、非常に微妙な表情を浮かべるクリフを、殺気のこもった目付きで紫が射抜く。
「……言いふらしたら、殺すよ」
「――……了解」
……だったらまず、その密着状態から離れろよ。
と、クリフは言わなかった。真っ赤な顔で潤んだ目で息を荒げるネルに、真面目な顔をして素直にうなずく。内心は、吹き出しそうになるのを必死に耐えていたりする。
そうしてから、腹減ったから早いとこ何か作ってくれと言い残してあっさりいなくなった。
「隠しきれると思ってたんだけど……まさか、よりにもよってあんたに気付かれるとはね」
その後。ヒーリングをかけて完治させた、改めて包丁を握る手を見下ろしたネルが。まだ落ち着かないほのかに染まった顔で、少しだけ嬉しそうに小さく柔らかく微笑んだのを。
――後頭部を抉られ昏倒したアルベルが見ることは、残念ながらなかった。
