その日。ペターニに一行はいた。
買い物やらクリエイションやら散歩やらと、各自久々の自由行動。そんな中アルベルは、特に何をする気にもなれずに宿屋で腐っていたのだが。
暇つぶしにと、最近では触ることすらなかった、以前使っていた攻撃力の弱い武器まで手入れし終わった。さて後は昼寝でもするかと伸びをした時、不意に隣の部屋から何やら鈍い音が響いてくる。
「……?」
どん、という鈍い音は一回だけで、その後はこそりともいわなくなったものの。妙に引っかかった彼は、小首をかしげながら腰を上げた。隣の部屋は女部屋、青髪の女は買い出しをするとかで出かけたが、確かクリムゾンブレイドの赤毛がいたはずだ。
「おい?」
とりあえず一声かけてから、彼はノブに手をかけた。あっさりとそれは開き、そして床に伸びている部屋の主を発見する。
「おい阿呆、なにやってん……!?」
部屋に入り、無造作に女の元にしゃがみこもうとしたアルベルは、ふと眉をしかめるとあわてて口元を押さえた。そのまま窓に走る。鍵までかかってきたそれを全開にして、一つ大きく息を吸う。
胸の焼ける重苦しい妙な空気のかわりに、新鮮な空気を思い切り吸い込んでおいて。それから再び息を止めて背後に向き直った。
ぐったりと床に横になっているネル。その脇に広がっている細かい道具類――色とりどりの液体入りの試験管、よく分からない粉末の薬方、乾燥した薬草の束に、単なる石ころのような何か、少し離れたところに多分ほとんど完成品の丸薬がいくつか。
そして――先ほどまで調合していたのだろう、ネルの脇にある乳鉢から漂う異臭。
アルベルは直感的にそれがこの妙な空気の原因だと悟った。ベッドシーツを剥がしてそれで乳鉢ごとくるんでおいて、しかしそれよりも意識のないらしいネルが気になる。
舌打ちをひとつ、まったく反応のない彼女を肩に担ぎ上げて、自分の部屋に移動した。
「おい、生きてるか? なんださっきのは」
ベッドに彼女を投げ出し、その肩を掴むと乱暴に揺する。
よく分からないが、何か毒でも調合していたのだろうか。すぐに気付いてほとんど部屋の空気を吸わなかったはずのアルベルでさえ、なんだか手がびりびりと痺れている。そんな瘴気めいた空気、しかも密閉された中にネルはずっといたわけで。
大丈夫だろうか。
とりあえず彼女の口元に手を当ててみる。……手に残った痺れのせいか、息をしているかがよく分からない。少し考えた彼は彼女の服の胸元をごそごそとさぐって、その左胸あたりに耳を押し当ててみた。
「……生きては、いる……か」
目を細めて小さく息を吐き、しかし渋面のままアルベルはつぶやいた。
耳に届く心臓の音。確かに生きてはいるようだが、しかし妙に弱くて不規則だ。戦闘はともかくとして、それ以外のことには丸きり疎いアルベルはどうすればいいかとさらに舌打ちをする。仲間なり医者なりを呼ぼうにも、事態は一刻を争うのかもしれない。ずっと聞いているはずの心臓の音は相変わらず弱く途切れがちで、落ち着かない妙な気持ちはどんどん膨れ上がっていく。
とりあえず毒だろうと見当を付けた。荷物をあさるとアクアベリィが手に触れたので、とにかくそれを食べさせようとネルの口元に押し付ける。が、相手は完全に意識を失っている状態、それで食べろという方が無茶だ。
「おい」
叱り付けるように声をかけて、右手に持ったそれを一瞬眺める。仕方なく自分の口に放り込むと適当に咀嚼して、そしてネルの細い顎に手をかけると、堅く閉じた唇に自分のそれを重ね合わせた。
とりあえず舌で歯列をこじ開けて、薄く開いたところで口内のものを流し入れる。口の中に広がる甘酸っぱいものを舌で流し込みながら顎を少し持ち上げると、女の喉がこくりと鳴った。なんとか飲み込んだらしい。
「……」
しかし普段目にするような、期待していたような劇的な効果は見られない。
「……おい、目ぇ醒ませ」
声をかけながら荷物入れをあさって、アルベルは今度はブルーベリィを取り出した。二回目ともなると躊躇なくそれを咀嚼して、またしても口移しでそれを与える。そうしてからもう一度心音を確かめようと彼女の胸に耳を当てたところで、ネルが薄く目を開いた。
「……!!??」
ネルは声にならない驚きの声を上げた。
なぜかアルベルに押し倒されている。なぜかアルベルが自分の胸に顔を埋めている。なぜか自分はベッドに横になっていて、なぜか声が出なくて、なぜか全身が麻痺している。
前後の脈絡がまるで分からないことだらけの上に、男に、しかも元敵国の将なんかに押し倒されていて、身体の自由も利かなくて、ネルには混乱するしかできない。
とにかくこの男をどうにかしなければと思った。まったく動かない身体に焦りながら、動かない舌で懸命に唾を飲み下して、息を吸って震える声を上げる。
「……な、に、やってん……だ、い……っ!?」
「! ……やっと気付いたか」
男は、目線を上げて悪びれた様子もなくつぶやいた。かっとネルの頭に血が上る。
「人を、……押し、倒しておいて……っ、あんた、悪い、とか、思わない、の、かい!?」
「……あぁ?」
いまだネルの胸に顔を埋めたまま、見上げる男の紅い目が不機嫌そうに細くなる。
「なん、で……あんたがここに、いて……あたしを、押し倒してる、のか、訊いて、るんだよ……!! 出てけ……っ!」
「はあ……? てめえ、何か勘違いしてねえか? ここは俺の部屋だ」
言われてもネルにはそれが本当だとは到底思えなかった。全然動かない身体は身じろぎさえさせてくれなくて、それなのに感覚はいつも通りで。のしかかっている男の熱やら重さやらにおいやらが、知りたくもないのに伝わってきて心臓が騒ぐ。
「下手な嘘、吐くんじゃ、ない……っ」
「阿呆、嘘じゃねえよ。決め付けるな」
どうしてこうも身体の自由が利かないのか。
ネルは一瞬、この男に毒でも盛られたのかと疑ってみた。が、さすがにそれはすぐに否定する。この戦闘馬鹿はそういうことを思い付く脳を持ち合わせていないし、よしんば思い付いたところで、無駄なプライドの高さと正面きって戦うことが好きな性格、薬に頼るくらいならむしろ力でどうにかしようとする短気さが、そうはさせないはずだ。
しかし……だったらなぜ?
考えようにもこの体勢ではまるで考えがまとまらない。
「何だ、ていい……っ、離れな、この、馬鹿!!」
今すぐ押し退けて、いや、蹴りの数発ぶち込んでやりたいのに。
しばらくにらみ合い、やがてアルベルが根負けした。
わざとらしく息を吐きながらベッドから――正確にはネルの上から退く。離れた熱がなぜか切なくて、一瞬ネルの瞳に揺れた感情にはどちらも気付かなかった。アルベルはそして部屋の壁にもたれて、動けないままにもがこうとあがくネルを醒めた目で見下ろす。
「……もう一度言うぞ、ここは俺の部屋だ。妙な物音がしててめえの部屋覗きに行ったら、てめえが伸びてやがった」
噛んで含めるような、しかし妙に低くて聞き取りやすいのか聞き取りにくいのか微妙な声。
「なんか調合道具が出ていたからな。毒でも調合しているうちにミスりやがったのか、とりあえず部屋の空気がやたら変だったから、窓開けた後こっちにてめえを運んできてやった」
ぎらりと物騒な光を放つ紅い瞳。
「息してんのかしてねえのかよく分からなかったが、とりあえず心臓は動いてたから、医者やら何やら呼ぶ前に、アクアベリィとブルーベリィを食わせてやった」
ここで息を吐いて目を閉じて、
「……これでもまだ噛み付く気か……?」
低いうめきには、隠しようもない怒りの色。
ネルは、やがて頭が白く濁ってはじめて自分が呼吸を止めていたことに気が付いた。静かに呼吸をくり返しながら、頭の中で男の説明を反芻する。
「……あ」
そういえば。訃霞に使う毒が少なくってきて、しかしモノがモノだけに人数の多いファクトリーでそれを補充するわけにもいかず、一人部屋にこもっていたことに思い当たった。
調合をミスしたわけではない。いまいち記憶があやふやだが、おそらく換気しないと危険な調合を密室で行っていたせいで、気化した毒にやられたのだと思う。
毒――毒と混乱と麻痺を引き起こす、毒薬の原液。
「……すまないね、思い出した。バジルか何かないかい?」
「あ?」
「混乱してたんだ、あたしが悪かった。……で、麻痺に効くもの持ってないかい?」
「麻痺? 毒じゃねえのか??」
「毒と混乱と麻痺を受けるんだよ、あれの原液不用意に吸い込むと」
「……フン」
道具入れをあさりだすアルベル。そういえば自分はアクアベリィやらブルーベリィやらを一体どうやって食べたのかと、ふとネルの頭によぎる疑問。
――その疑問はすぐに解消されることになる。
そして。後日必殺技の一つを封印することにしたネルと。普段から無駄に露出している腹、鳩尾あたりに青痣を作った不機嫌極まりないアルベルが、仲間たちに発見されることになる。
――というか。脈の確認は普通、手首でするものだ。
