びっ、
「……あ?」
小さな、けれどどこか不吉な音がした。

―― Er nahen eine Unmoglichkeit.

ちょっとした不注意に気が付いた時には、彼の服はだいぶどうしようもない感じにほつれて――というか裂けていた。
冒険中の現在、余分な荷物を持たないからかえの服がない。当然ながら買い換えるにも店などあるはずがない。パーティメンバーに泣きつくことはプライドが許さなくて、けれどこんな格好をしていると見られるのはもっとプライドが許さない。
そうなれば一つしかなかった。
悔しいことに、裁縫道具はなぜかすぐにありかが分かった。

――夕食後、ほぼ日課のように周囲を見回っているときでまだマシだったかもしれない。
手近な倒木に腰を下ろしたアルベルは、やるせないため息を吐きながら道具をあさって針と糸を取り出した。
とりあえず、この見た目さえどうにかなれば当座は凌げる。というか、明日には町に入る予定だから、たったそれまでの間誤魔化しがきくなら問題ない。
「…………っ、」
問題があるとすれば。
こういった細かい作業などそもそもしようと思ったことさえない、という今までと。繕うよりも先、まずしょっぱな、針に糸が通りさえしない――という不足の事態にだった。
「……チッ」
舌打ちをしてもどうなるものでもないし、かといって癇癪を起こして投げ捨てるには、その後自分に振りかかる実害が大きいと予想ができて。
――わざとらしく見て見ぬフリをされるのも、にまにまにやにや笑われるのも、どちらも願い下げだ。
そう思って何度も自分を鼓舞しても、どうしても針に糸が通らない。糸の端が何度もぐちゃぐちゃにほつれて、そのたびにほつれた部分を切り落として、いい加減そろそろ戻らないと怪しまれると思うのに、どうにもならない。
繕う以前にこんなところにつまずいて、自分をミンチになるまで斬り刻みたいと思う。心底思う。どのみちキレイに繕うことができるなんてカケラも期待はしていないけれど、こんなところで、こんなところで……!

「クソッ!!」
「……何やってるんだい」
「っ!?」
まるきり気配に気付かなかった。
びくんっ、思わず全力で跳ね上がってから、アルベルはそんな自分をもう本当にぶち殺したくなった。自分に対する怒りのあまり、わなわなと震えるアルベルに。背後からの声の主がぐるりと正面に回りこんでくる。
――こいつ殺して口封じして、バックレてやろうか。
さらさらと流れる赤毛、きっと一目で事態を理解した深い紫の瞳。顔の美醜に興味がないアルベルでさえ、整っていると認めるその顔に浮かんだ呆れの色に、一瞬にして吹き出した殺意。
本当にその衝動にしたがってしまおうかどうしようか、思わず悩んでいると。
すっと細い腕が差し出された。
「?」
「貸しな。……手こずってるんだろう?」
何気なく言われたその言葉に、ほっとするとかそういうものより、なんだか悔しさが勝る。じっとにらみ付けた――つもりだったのにすねた感情が表に出ていたのか、赤毛の女隠密はそんな彼にただ苦笑する。
「あのさ、……努力してどうにかなること怠けてたならそりゃぼろくそに言うけどさ。けど、これはそういうのとは違うんじゃないのかい? そんな目でにらんでくるんじゃないよ」
「わけ分かんねえことほざくなこのクソむ、」
「片手で裁縫しろだなんて言われたら、あたしだって絶対手をこまねくね」
「っ、」
さらりと言い当てられて。思わず息を詰めたアルベルの手から、服と針と糸と、すべてが風のようにさらわれる。

◇◆◇◆◇◆

アルベルからひと一人分置いた微妙な位置に腰を下ろして。夜目は利くけれど一応持ってきたランタンを、倒木、自分の脇に置いて。
ネルはとりあえず針に糸を通した。決して慣れているわけではないのもあって二回ほどスカって、けれどなんとか糸が通る。ちらりと目をやれば、呆然からなんとか立ち直って、けれど今度は憮然とした表情を隠そうとしないアルベル。
「……何か言いたいのかい?」
「…………なんで知ってる」
その右手が鉄爪に触れていて、言いたいことが分かった。ネルは肩をすくめる。
「シーハーツの隠密をナメるんじゃないよ――と言いたいトコだけど、違うね。
あのさ、あんたがパーティ入ってきて一体どれだけ経ったと思ってる? あたしは職業柄どうしても細かいとこに目がいってね、だから気付いたのさ」
糸の通った針を片手に奪い取った服を広げてみれば、かなり豪快に広がる裂け目。……大方、「ちょっと引っ掛けた」程度だと思って引っかかりを無視したのだろう。実は「ちょっと」どころではなかったために惨状が広がったのだろう。
目の前の惨状と自分の縫裁能力をつき合わせて、ネルは小さく息を吐く。
「応急処置しかできないけど」
「……」
断って、返事がないのを肯定と受け取って。いかにも適当に手を動かす。少しずつ裂け目が誤魔化されていく。

アルベルは何も言わない。
――ネルも、それ以上はもう何も言わない。

◇◆◇◆◇◆

適当になる、と断っていたけれど。元から神経質なきらいのあるネルの手にかかれば、針の動き方はずいぶん慎重だった。殺気をそがれたアルベルはそれを黙ってじっと見つめて、やがてネルの口元に苦笑が浮かぶ。
「本人ができることを、少し努力すればできることを怠けたら、そりゃ馬鹿にするさ」
アルベルの右手が無意識に鉄爪を――左手を押さえ付ける。見えているはずなのに、ネルの苦笑は動かない。
「それに、「そうするのが当然」と命じられれば、あたしもマリアもまず反発するね。お前は何さまのつもりだ、って」
「…………じゃあ、」
――じゃあ、今てめえがやってるのはなんだ。
疑問が声になるよりも早くネルの目がつぶやきかけたアルベルを射抜いて。瞬間、彼から動きの自由がなんだか奪われて、
「その下、火傷。神経もやられたんだろう? だいぶ動かせるようになったとはいえ、こういった細かい作業にはまるで向かないから。だから最初からないものとして、右手一本でどうにかしようとしたんじゃないのかい?」
まったくの図星に声が出ない。ここで怒るのは肯定するも同じだと分かって、けれど答えなければそれだって肯定で、
反応の仕方が分からない。
戸惑うアルベルに、紫がやわらかくなる。
「……いい加減、あたしらを信用してみな。軽口と拒絶を嗅ぎ分けたらどうなんだい」
「なに、を、」
「頼れ、って言ってるのさ。不可能は不可能、自分にできないことはさっさと認めて、それが可能なやつに頼め、ってね。
あたしにできないことであんたにできることがあるなら、いつか、あたしもあんたを頼るかもしれない。仲間なんだ、そうして持ちつ持たれつってのも良いじゃないか。何も戦闘の時に背中を預けるだけが「仲間」じゃないだろう?」
ネルの手の動きがそれまでとはなんだか違う。ぐるぐるぐる、何か巻きつける仕草をすると糸切り歯で糸を切る。
繕い終わったアルベルの服を試すがめす、やがて投げてよこしながら、
「今すぐに、とは言わないさ。けど、少しずつ歩み寄っても良いじゃないか。
――……もう、だいぶ付き合いも長いんだよ」

それは、まるで自分に言い聞かせるようで。
そういえば。当初は常に向けられていたネルからの殺気が、最近はきれいさっぱり消えていることに。今になって唐突に、そんなことに気が付いて、

「……あ、」
「パーティメンバー」を対等の人間として見ろと、「仲間」として見ろと。受け取った服に落としていた目を、やがてゆっくり顔を上げたアルベルに。
けれどそのころには本人はどこかに姿を消していて。
「仲間」の第一歩、礼を言うべきか否か。プライドと天秤にかけて悩んでいた自分が馬鹿らしくなって、彼は大きく息を吐く。
「…………阿呆」
すっかり元通り、まではいかなくても。十分きれいに繕った、きっと彼には無理だったそれに対して、何かを言うべきだと思って。けれど顔を上げてみれば、礼を言わせない女隠密にアルベルはいつもの罵声を吐き捨てる。
ひねくれているのはどっちだ、と。思わずぼやきたくなる。

そういえば、ネルが置き忘れて行ったランタンを――ひょっとしたらアルベルのことを思ってなのかもしれないランタンを取り上げて。
アルベルは肩をすくめた。
さっそく着込んだ服はやはりどことなく違和感があって。
――……なんだかとても、くすぐったいようなもどかしいような、そんな感じがする。

―― End ――
2005/08/12UP
アルベル×ネル
OFP
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Er nahen eine Unmoglichkeit.
[最終修正 - 2024/06/21-11:16]