まさか、まさかまさかまさか。
こんなことに、なるなんて。
「ったく……、あんたって筋金入りの馬鹿だね」
「……」
「違うとか否定したいなら、もうちょっといろいろ考えてから行動しな。反射がもの言う実践最中じゃないんだ、考えないと脳みそどんどん退化するよ?
ほら、横向きな」
「…………」
宿屋の一室、いまだにてめえらと馴れ合う気はねえんだよとかほざいて自腹を切るアルベルの部屋で。ネルはぶつくさ文句を言いながら、借りてきた救急箱をひっくり返していた。
部屋の主は彼女の前でむっつり憮然とした顔をさらしている。
格好さえまともなら町中の女の目を集中するだろう美男子は、けれど現在ぼこぼこな顔をしていた。
町に着くと同時酒場へと駆け込む男性陣は、すでにおなじみだった。まったくろくでなしぞろいではあるものの、いちいち連れ戻すのも面倒だということで、女性陣で宿の手配やら不足アイテムの買出しやらクリエイションやらをするのがお決まりになっていた。
そうして今日も、すぐに宿屋へ向かった女性陣が部屋を取った直後。
国内最高位の隠密、クリムゾンブレイドのネルを呼びに町の警邏隊の隊員がまっすぐ宿屋のロビーに走ってきた。
なんでも、酒場で騒ぎが起きたとか。
嫌な予感がして、とりあえずかさばる荷物だけ部屋に放り込んでから、件の酒場へ向かってみたら。大抵の騒ぎなら勝手に収めてくれるはずと、酒場に向かった男性陣に期待して駆けつけてみたら。
嫌な予感が的中、騒ぎを起こしたのは期待を背負ったパーティの男性陣三人だった。
周囲と本人たちの話からすると。どうやら、最近町の外をひよひよと浮かんでいる正体不明のとんでもなく強いヤツラをものの数分で片付ける実力の三人が。
――殴り合いの喧嘩をしたらしい。
死者および深刻な負傷者がゼロ、建物にも大きな被害がなかったのが奇跡だと、ネルはしみじみ思う。思ってから苦笑して、自分を含めてバケモノぞろいだねと、さらに思う。
「武器振り回さなかっただけ、それだけの分別あっただけマシか。
それはいいけどさ、次があるならひとけのない荒野とかでやりな。あんな酒場で殴り合いの喧嘩なんかしたりしたら、まわりの酔っ払いどもが便乗して騒ぐじゃないか」
「……るせ」
二対一の数に負けたわけでもないだろうけれど、日ごろの軽装が裏目に出たか喧嘩を起こした三人のうち、アルベルが一番怪我がひどかった。頬骨のあたりに集まってきた青い血を軟膏を塗って拡散してやりながら、ネルは深く息を吐く。
「……ようやく、返事したね」
「……」
「ひねくれもので頑固なあんただから、訊ねたところで原因なんて話さないと思うから、それは訊かないけど。あとで酒場のマスターに謝りに行かせるから覚えときな」
「…………ちっ」
感情的にならずに正論で追い詰められるのに、アルベルが弱いと知ったのはいつだっただろうか。
紅の目を泳がせて舌打ちをするのにため息を吐いて、ネルは今度は腕のミミズの処置にかかる。
アルベルも他の二人も、女性陣だって。パーティメンバーは全員戦いのプロだ。得物を使わないとしても、使うことのできない状況にあったとしてもそこそこ闘う術は身に付けている。
そう思えば、だから今回のこれはちょっといき過ぎたじゃれ合いなのだろうと思う。
つくづく、男は馬鹿だと思う。
ぶつくさ小言をつぶやきながら、わざとらしいため息を吐きながら。それでも丁寧に怪我の治療をする赤毛の女を、アルベルはじっと見下ろしていた。
理由を言えば術で治すけど、と言われて返事をしなかった。
有言実行のカタい女は、そんなアルベルの態度に深々と息を吐くとどこからともなく救急箱を抱えてきて。そしてこうして治療をしている。
獲物も防具もすべて外して、ひたすら無防備に彼の治療をしている。
――阿呆が。
口に出したならこれ以上の怪我――どころか下手をしたら三途の川さえ拝みそうなので、心の中で吐き捨てた。
瞬間どんな条件反射か、青髪の青年の小馬鹿にしたような顔と、金髪筋肉男のにやけ面が浮かんで、先ほど喧嘩の原因になった言葉のやり取りが浮かんできて。激しく気に食わない。むちゃくちゃに腹が立つ。
ネルと自分とに腹を立てて、そしてぎりっと歯噛みしたところで口内が切れていたのか鉄くさいにおいが口に広がって。ますます面白くない。
――星の船――ディプロで、どんな思惑か無理やりこの女と一緒の部屋にされた。
――一晩過ごしたところで、当然のように何かあったわけがなかった。
ネルが鈍すぎてそんな風に思い付きもしなかったらしい、態度にまるで出なかったのがひとつ。そういう雰囲気になったならともかく、自分でしかける気がアルベルに起きなかったのがひとつ。「仲間」というくくり方は気に食わないけれど、今の関係がそれなりに満更でもないので、このまま維持したかった、変えるのが面倒臭かったのかひとつ。アルベルの身上はあくまで闘いで、それ以外にはあまり興味がないという別の意味ではひたすら不健康なのがひとつ。ネルと同じ部屋だと知った瞬間にピンときた、部屋割りを決めたやつの思惑に乗ってたまるかというのがひとつ。
あとから考えれば、理由はまだまだあったけれど。
「何もなかった」と言う事実は覆しようがない。
……けれどあの男二人は何もないはずがないと決め付けて、本当に何もなかったと知った瞬間彼を馬鹿にした。酒場に入る道すがらのやりとりでかなりキていたアルベルは、それを受け流せなかった。
馬鹿にされた瞬間かっと頭に血が上って、そこからの記憶がアルベルには曖昧で。ただ、その状態でもじゃれあい程度の殴り合いですんだ自分が、ネルの言うとおりいっそすごいと思う。周囲に無駄な被害を出さなかったのが、いっそありえないと思う。
そんなことを思っていないと、変な風に触発された意識が何をしでかすか分からない。
「まただんまりかい。……ガキだよねあんたって」
触れるやわらかい手、内容は聞き流して、ただ耳に心地良い声。ふわり、かぎ付けてしまう甘い香り、くるくると付かず離れずのしなやかな気配。
――変な風に触発された意識がうずいて、なけなしの理性がそれを押さえ込む、
特別な感情を、ネルに抱いているわけではない。自覚している限りそんなことはありえない。ただ、ネルの存在は彼の中でプラスにあって。ただ、それだけで。
身体と心が一致しない、衝動を抑えるために苦手な思考に漬かろうと思うのに、ちらちら動く気配は集中を許さない。やわらかく触れられればくすぐったくて仕方がないし、しかし文句を言うつもりは起きない。
自分でも集団から外れている自分を「仲間」として扱うネルが、ただ、
……ただ。
「よし、これで終わりだね。これ返してくるよ」
「っ、」
ぼんやりした思考は、彼女の言葉を聞き逃した。耳は声をとらえていたけれど、頭が意味を理解しなかった。
――離れてしまう、それが衝動的に身体を動かして。
次の瞬間には、アルベルはネルを、
「ふざけんじゃないよ!!」
ネルの怒声が宿屋を揺るがした。
――まさか、まさかまさかまさか。
――こんなことに、なるなんて。
ずかずかと廊下を大またで歩きながら、ネルは自分の手首に触れる。今さっきつかまれたそこに男の体温が残っているような気がして、それが、
それが――いや、ではない。
ふざけるだけの余裕を持たない男のことは知っていて、演技をするだけの技能のない男のことは知っていて、今さっき至近距離で見てしまった紅は熱に浮かされたようにまっすぐネルを見ていた。
ネルだけを。
どくんとはねた心にびっくりして思わず一撃くり出していて、怒鳴った勢いで部屋を飛び出した。用事はすんだからそれはそれでかまわないのに、なんだか忘れものをしたような気がしてネルは落ち着かない。
脚を緩めて背後の気配に神経を集中して、ぶんぶん首をふると自分のそんな思考を追い出す。
顔が熱くて頭が熱くて。脳ミソがゆだる。
――まさか、まさかまさかまさか。
――こんなことに、なるなんて。
怒声とともに飛んできた一撃が、イイトコロに突き刺さったか。悶絶したアルベルはしばらく経って悶絶から立ち直って、たった今ネルが出て行った扉をぼんやり見つめる。目の奥に赤い残像、耳に残るのは怒声さえ心地良い彼女の声。
……末期じゃねえか。
頭を抱える。目の前に腹が立つ男どものあの彼を馬鹿にした顔を浮かべて、それで気分を怒り方向に向けようとしても。まるでうまくいかない。
深く考えないままに行動を起こしてしまった。これからどうしよう。
困惑しながら扉を眺める。その向こう、ずっと先にいるはずのきっとものすごい勢いでここから去りたがっている彼女を。細い背中を見たような気分になる。
頭に血が上って思考がまとまらない。脳ミソがゆだる。
まさか、まさかまさかまさか。
こんなことに、なるなんて。
――まさか。
