「いつまでもちんたらぐずぐずしてんじゃないよこの馬鹿!!」
宿屋の壁越しに遠慮なしの怒声が響いて、直後、ずだんっというなかなかにすさまじい音がした。
「……ネルってアルベルにだけは容赦ないわね」
青髪の女参謀が何の脈絡もなしにそんなことをつぶやいた。
「そうかい?」
町を発って間もなく、ただ道を行きながらネルは首を傾げてみる。
「そうよ。……というか、アルベルに対してだけは口と一緒に手が出ている感じ、かしら」
「手……?」
思い返してみる。
たとえば朝、放っておけばいつまで経っても起きないアルベルを起こすとき。当初はまず声をかけていたものの、最近ではそんなことでは起きないことを嫌と言うほど思い知っているので。むかっ腹が立つくらい気持ちよさそうに寝ているその寝顔、耳元で怒鳴りながら。
細いように見えて、触ると意外とたくましい肩をそういえばがくがくやっている。
たとえば、些細な用事で呼びつけるとき。ただ声をかけただけでは聞いているのかいないのか、とりあえずその声を無視してくれるので。
何の意味があるのかその二つにまとめている長い髪の片方を、そういえば呼び鈴よろしくぐいぐい引っ張っている。
たとえばたとえばたとえば。……そういえば確かに彼女の指摘どおりかもしれない。当初は、確かにまず声をかけていた。かけていたけれど、それがアルベルがパーティに入ってだいぶ経って、本人もネルも周囲もそれになじんだ今では。
声をかけながら、声をかけるより先に。確かにまず手が出ている、かもしれない。
「……だって、そうでもしないとあいつ、動かないだろう?」
ネルだって、別に好きでやっているわけではない。ひっぱたけば、ひっぱたかれた方はもちろん痛いだろうけれど、ひっぱたいた方の手だって力加減に比例して痛いのだ。町中での買い出しだって、人ごみの中無駄に大声など張り上げたくなどない。
でも、そうでもしないといい歳をしてひねくれきったあの男はまるで動いてくれないから。
だから、仕方なくそうしているのだ。
「まったく――手のかかる子供みたいなやつなんだから」
ぼやくネルに、そうかしら? と笑うような翠が向いている。
「お前ってさあ、ネルさんにだけは無駄に手を焼かせるんだな」
「……あ?」
青髪のパーティリーダーの言葉が、その意味がよく分からなくて。なにやら仲良くしゃべりながら笑いながら歩く女たちの後ろ姿に、アルベルは眉を寄せた。
「……何が言いたい」
「別に、雑談だよ。
お前ってさ、僕やクリフやマリアには何か言われるのがいやで、言われる前に動きたがるけどさ。ネルさんに対してだけは、分かっててわざと動いてないだろ?」
「阿呆」
「あー、そりゃオレも思ってた。自覚ねえならせめてそのくらいしとけよ」
「あァ!?」
話の途中に割り込んできた金髪筋肉男まで、わけの分からない指摘にうんうんと深くうなずいている。
とりあえず馬鹿にされていると察したアルベルの眉がみるみる釣り上がっていって、そんな彼に二人揃ってやれやれと肩をすくめて、
「アレだよな、好きな娘の気を引きたくて意地悪するってやつ」
「おー、そんな感じだよな。あとはアレだろ、保母の気を引きたくてめんどくせえイタズラくり返す悪ガキとか」
「そうそうそう、まるっきり成長ってのが見えないよな」
「こいつの精神年齢、実は片手くれえじゃねえの?」
あっはっは。
ただでさえ短い堪忍袋がすでに限界、額に青筋浮かべてぴくぴくさせているアルベルを、きっと分かっていて。普段は大して仲が良くもないのに、今は二人揃って馬鹿面でわざとらしく笑っていて。
「……てめえら、」
「だって、事実そうだろ? 今朝だってさ、マリアが起こしに行ったときなんか特に何事もなくあっさり起きるくせに」
「今日はなんだっけ、お、そうだそうだ。
テーブルマジックよろしくベッドシーツ引っ張ってかれたんだよな。んで、ベッドから落ちた。スピンつきで」
「馬鹿だ馬鹿だって思ってたけど、しみじみ実感したよそれ聞いたとき」
「間抜けにもほどがあらーな」
だっはっは。
ぶつん、と何かが切れる音を確かに聞いた。
アルベルは引きつった笑みを口の端に浮かべて、馬鹿笑いする男二人をいっぺんに鉄爪で引き裂こうと突撃する。戦い方やら得物やらは違っても、実力的には同レベル相手、二人は腹が立つくらいあっさりそれを避けて。
わざわざ刀を抜くのも馬鹿らしい。アルベルは鉄爪を得物にとりあえず金髪筋肉男に突っ込んでいく。
何が原因か、派手に喧嘩をはじめた男性陣にやれやれと息を吐いて。けれど仲裁に入ることもなく、女性陣二人はずんずん進んでいた。
――もう少し暴れさせて、勝手に落ち着くのを待つか。もう少し体力を減らしてから、喧嘩両成敗にかかるか。
そちらにちらりと目をやるネルに、さっきの話だけど、とマリアが何気なく、
「私が近付くと、アルベルって大体勝手に動くわよ? というか、まあ逃げるんだけど。
朝だって、大して面倒なことしなくても起きるし」
「……? そうかい?? あたしは毎回心底苦労するんだけど」
タッグを組んで二対一になれば勝敗は簡単につくくせに、三つ巴で取っ組み合っている馬鹿な男性陣を見やりながら。むっと唇を尖らせるネル。
「あいつ、あたしを馬鹿にしてんのかね?」
――あとで難癖つけて鳩尾に一撃食らわしてやろうか。
――あら、ネル。あなた気付かないの?
よそを向いているネルは、そんな女参謀の表情に気付かなかったけれど、
「でも、たとえ殴るにしても。彼に触れることにためらったりはしないのね」
「けど、ネルさんにだけは素直に殴られるんだな」
嫌いなら、心底嫌いなら。そんな気持ちで危害を加えたいなら、直に触れずにすむ方法を取るのではないか。そんな気持ちなら、そもそも殴られずにすむように動くか、殴りかかられてもきれいに避けるのではないか。
冷静に、もしくは面白がるように。
指摘されて。
――え、と一瞬目を見開いた二人は。
「そ、そんなわけあるもんかい!!」
「阿呆なこと抜かすなクソ虫が!!」
――肯定でしかない否定の怒鳴り声を。今この場では、からかわれる材料にしかならない反応を。
二人揃ってまったく同じタイミングで、示していた。
……その頬が、やはり揃って染まっていたのは。
果たして怒りから、――だけだろうか。
