それが、一般に何と呼ばれる感情なのか。
本当は知っている、ちゃんと分かっている。

―― In reiferen Jahren

その日、シランドの街に彼らはいて。当然のように城に泊まっていて。女王に仕える身としてネルだけ一人城に部屋を持っているため、彼女だけはすっかり別行動で。
それでも何かと用事はあるから。だから一時一行と合流しようとして、――見てしまった。
知らなくてもいいものを、知ってもどうということのない場面に。
出くわしてしまった。

◇◆◇◆◇◆

「……おい」
「何だい、用事がないなら話しかけるんじゃないよ」
「あぁ!?」
同じパーティを組むようになって時間も経過していたし、最近はだいぶうちとけてきていたし。先ほど見てしまったものは、別にその関係に何か悪影響を与えるものではなかったはずなのに。
気配に、存在に気付いていながら知らない風を装ってしまって。
話しかけられた瞬間、自分でもそうと分かる喧嘩を売る言葉を返してしまって。
元から短気で狭量な男は、当然ながら気分を悪くした。そこいらのごろつきさえ逃げ出すような凶悪な視線と声に、そうするべきではないと分かっているネルは。それなのに彼の神経をさらにわざわざ逆なでるように、いかにも馬鹿にした吐息を吐き出している。

「――それで何の用だい? 今あたし、忙しいんだけどさ」
嘘、とても暇とまではいわないけれど、目も回るほど多忙ではない。それなのに勝手に口が動いていて、
「くだらない用なら、遠慮なく張ったおすよ」
フォローの、いいわけの、……いや、謝罪の言葉のかわりに。言うべき言葉のかわりに、言うべきではない言葉ばかりが口からあふれる。

「ねえ、歪のアルベル?」

◇◆◇◆◇◆

それは敵同士だったころの呼び名、二つ名。形式的にでも手を組むと知ったとき、封印しようと思っていた呼び方。
――なぜ今になってそれをほじくり返したのかネルにも分からなくて、
けれど彼をそう呼ぶ意味は哀しいことに本人も知っていて。

「……てめえ、」
「だから何の用さ?」
怒りに、剣呑に底光りする紅をただぎろりとにらみ付ける。そんなつもりはないのに、何かに操られているわけでもなく、ネルの身体も口も先ほどからまるで思ったことと逆のことしかしてくれない。

それが悔しいのに、哀しいのに。
それを表に出すことは、やはりできなくて。

◇◆◇◆◇◆

ただ、見てしまっただけだ。
シランド城の廊下、何の用か歩いていた男に駆け寄った侍女。頬を染めて、走ったからではない胸の高鳴りに目さえ潤ませて。
ネルには一目で分かった。彼女は、

「てめえな、何さっきから、」
「あんたには関係ないね! あたしにかまってる暇あるなら、」
――いい加減にしなよ、あたし。どうしちゃったんだい。

胸の奥にどろどろととぐろを巻く昏い感情。一息ごとに身を斬るような激痛。ぽっかり口を開けた深淵に身をすくませて、けれどまるで魅せられたようにそこから離れることができない。

◇◆◇◆◇◆

それが、一般に何と呼ばれる感情なのか。
本当は知っている、ちゃんと分かっている。
それが、何を意味するのか。
ちゃんとちゃんと、分かっている。

男に言い寄ったのは、昔からネルも知っている、誰にだって自慢できる見目も頭も性格も家柄も良い侍女だ。真面目で一途な彼女がなぜこの男を選ぶのか、それはネルにはちっとも分からないけれど、彼女がそうしたなら応援こそすれ邪魔立てなんて、
ずきん、――ああこの胸の痛みの意味は、

◇◆◇◆◇◆

「てめえは!!」
怒鳴られて、ネルは身をすくませた。恐ろしいはずはない、はじめてこの男にあったときから恐ろしさなんて一度も感じたことがない。けれど恐ろしいわけではなく確かに彼女の身はすくんで、

「話を聞け、――さっきどこかから見てたんだな。なら話は早い、」
「な、」
「これ返しとけ、あんな女に興味はねえ」
「あんたね! あの娘は良い娘なんだなんであんたに傷付かなきゃ、」
「……俺がこんな紙切れで落ちてたまるか!!」
無理やり押し付けられたもの、いかにもあの娘かららしい上品な紙に香りを焚き込んだ手紙。これを受け取るためなら、彼女の愛を受けるためなら。男なら何を差し出しても惜しくはないはずだろう、何を引き換えにしたってかまわないはずだろう。
それだけの娘だ、なのに、この男はそれなのに、それを紙切れ、と呼ぶなんて、
「……あんたは!」

「てめえな!!」
どん、
くってかかろうとして、それなのにネルの背にはなぜか壁。予想外の至近距離に男の鋭く整った顔。燃えるような紅に、きっと血なまぐさい不吉からだろう、彼女の肌がざわりと逆立つ。
怯えているわけではない、すくんだ身はとうに解けている。
ネルはぐっと奥歯をかみ占めて、
「……てめえ、」
低くうめいたきり、ふつりと黙り込んだ男をぎしりとにらみつけて、

◇◆◇◆◇◆

「この前アーリグリフで四人、その帰りのカルサアで六人」
「?」
「アリアスでは三人、ペターニじゃ十二人、この城で――二人だったか」
「……何の、」
ぼそぼそした声、聞き取ることはできてもわけが分からない。怒りを逸らされただけだと思っても自然眉は寄って、けれどやはり意味が、

「――この阿呆がっ!!」
「なんの話だい!? ……あ、ちょっと待ちなこれ!!」
「てめえに渡した、あとは勝手にしろクソ虫がっ!」
「あんたね!?」
わけの分からないことを一方的にわめいて、身を翻した男を呼び止めても無礼なことを吐いただけで背はぐんぐん遠くなって行く。今さらになってあの至近距離にネルの胸がざわざわして、足から力が抜けて立っているだけならまだしも男を追いかけるのは、
「……あんた、ね」

それが、一般に何と呼ばれる感情なのか。
本当は知っている、ちゃんと分かっている。
先ほどまであれほど胸を締め付けた痛みが、どろりと逆巻いていた黒い渦がいつの間にかなくなっていた意味も、

本当は、ちゃんと、

―― End ――
2006/05/14UP
アルベル×ネル
OFP
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In reiferen Jahren
[最終修正 - 2024/06/21-11:18]