そのまっすぐなまなざしが、――怖かったのかもしれない、なんて。
向けた心を踏みにじられるのが、ただ怖かったのかもしれない、なんて。
「失礼するよ! ノックス先生、あんたね、職員会議がはじまってんだけど!!」
「……うるせえよ」
「なっ……、て、ああ、生徒の質問かい……」
ずかずかと気分だけは靴音も高く廊下を進んで、四階建校舎の最上階、奥から五番目の部屋。物理準備室のドアを開けるなり文字通り怒鳴り込んだネルは、剣呑に向けられた声にかっと血液を沸騰させかけたもののふと動いた色にぐっと息を飲み込んだ。
どうやら先客がいたらしい。
青髪をうしろで束ねた彼女はネルの担当クラスの一員で、生徒会のメンバー。ただし今は数学の教科書を何か示しているわけで、どうやら分からないところを普通に質問に来たのだろう。
ネルの剣幕に、少し驚いているようだけれど。
「……ネル先生?」
「悪いね、おどかして。そこの数学教師は会議っていうとサボり癖があってさ、今日なんかは物理のウォルター老みずからあたし名指しで呼んで来いって、」
「おい」
「なんだいやかましい。大体ね! 古典のあたしがなんだって隣のクラス受け持ちだって理由だけでわざわざ動かなきゃなんないんだい!? あんたが! 真面目に出席すればそれですむってのに!!」
「やかましいうるせえ邪魔すんな! ――で、ここの公式だがな!!」
「……アルベル先生、あの、私別にこれそんなに急いでないから会議出てきたら?
ネル先生、古典の文法で質問したいところがあるわ。会議っていつ終わるのかしら」
「今日のは学年会と違って人数多い大き目の会議だからねえ……できたら日にち変えた方が確実なんだけど」
「分かったわ……じゃなくて、分かりました。アルベル先生も、じゃあまた今度」
「やめろてめえに敬語使われると寒気がする。……いいのか?」
「最初に質問したかった疑問は解消したもの。今のはついでだし、どうせだから自分で考えるわ。……じゃあ」
「悪かったね」
物分りの良い彼女はひらひらと手を振ると、ネルとすれ違うような格好であっさり出て行った。追い出したかたちになってしまって少しばかりの居心地の悪さに苦笑しようとした瞬間、けれどアルベルの表情が少し動いて、何ごとかと振り返ったら出て行ったはずの顔がまた生えている。
「?」
「そういえば、ウワサなんだけど。アルベル先生とネル先生って本当に恋人同士なのかしら? ネル先生が来たのって四月でしょ?? たった二ヶ月しか経っていない割に、アルベル先生にだけはずいぶん気安いじゃない」
「な……!?」
「てめえ薄気味悪ぃ冗談真顔で言うんじゃねえ!! つか誰だそんな大法螺吐いたのは!?」
「……大袈裟に反応ってことは……図星?」
「違うそんなん大間違いだよ、マリアあのね! たまたま偶然哀しむべきことに!! 学生時代にこいつはあたしの女子高の隣の……!」
「何だてめえ、てめえこそ勝手に俺の高校の隣に、」
くすくす、笑い声にはっと顔を上げれば水を向けた本人は消えていた。そういえば気が付けば、この狭い部屋には現在二人きり。……変な話に、どうしよう、なんだか動揺している。
「い……、行くよ! 会議ははじまってんだ!! あんたがどんな恥かいてもあたしは知ったこっちゃないけど、とばっちりはなんでかこっちに向くんだからね!?」
「うるせえやかましい俺に指図すんな! つかクソジジイ!! どんな嫌味だこんな女よこしやがって!」
「聞き捨てならないね! 迷惑してるのはこっちだろう!?」
「……けっ!」
長年の念願が叶って、古典の教師として母校に勤めるようになった。同時に、新米には荷が重いと思ったけれど三年生の受持ちまでやることになった。教師職は思っていた以上に大変だけれど、その分充実している。この職を選んで良かったと、ネル・ゼルファーはしみじみ思う。
ただ、予想外だったのは。女子高だった母校が、自分が大学に通っている間に隣の男子校と統合して校舎まで新しく大きくなっていたことと。よりにもよって学生時代、何かと目立つネルにうるさく絡んでいた不良がその学校に数学教師として勤めていた、さらには彼女の受持ちクラスの隣のクラスの担任だった。そんな二点。
「そもそも俺の方が先にこっちに勤めてたんだ! わざわざあとついてきやがって、何考えてやがる!!」
「な……! か、勝手なこと言ってんじゃないよ!! あんたのことなんてきれいさっぱり忘れてたってのに、何だって待ちかまえてるのかあたしの方が訊きたいね! つか、いつも思ってたんだけどその趣味悪いスーツで身だしなみ検査とかしてんじゃないよ、説得力がないじゃないか!! どこのヤクザ屋で仕入れるんだいそういうの!?」
「話ずらすんじゃねえよ、つか言いがかりつけんな!! ジャージ着てたら口やかましく文句つけやがって、しぶしぶかえたらこっちにもか!? てめえ、喧嘩ならいつでも買うぞゴルァ!!」
「たとえケンカだろうがなんだろうが、あんたに売りたいものなんて何もないね! むしろあたしの人生に関わるんじゃないよ!! 大体、何だってあんたなんかが教師目指したのかものすごく疑問だよねめんどくさいこと嫌いなくせに! ていうよりも、半分脱色したその髪でよくもまあ雇ってもらえたもんだね!?」
廊下を走るなと生徒に口うるさい立場上、どんなに急いでいるにしろ走るのもどうかとネルは思う。学年の関係上彼女よりも一年早くこの学校に入ったアルベルにも、驚くことにそんな習慣が身についていて。結果二人してせかせか長い廊下を急ぎながらひたすらに言い争う。
放課後で良かった、のかもしれない。穿った見方をするコイバナ大好きな年ごろの生徒たちには、こんな姿、格好の餌になってしまいそうだ。
思って、深く息を吐く。むっとにらみ付けるアルベルから、ふいと視線を逃がす。
西の空に太陽が沈むまでもう少し、ああ、世界が金色に染まっている、なんて柄にもなくそんなことを思って――そういえば急いでいたはずの足がなぜかゆっくりになっていて、彼女に負けじと急いでいたはずのアルベルの足まで、なぜかそれに合わせるようにゆっくりになっていて。
会議室はこの棟の二階、まだずいぶん先の方。こんなにゆっくりな足取りでは、同じ息を吸いたくもないアルベルと、まだしばらく二人きりになってしまう。
「……なんだって物理準備室なんだい、遠いじゃないか」
「職員室は居心地が悪ぃんだよ。ウォルターのクソジジイが、数学も物理も似たようなもんだからなんだったら半分部屋貸すぞとかどうとか……つか、俺もてめえに訊きたいことがあったな」
「なんだい」
「てめえ、寝てるか? 食べてるか?? ……俺の目の前で倒れるなよ、てめえの世話なんて焼きたくねえ」
「新任なんだ、慣れるまで無茶するのが普通じゃないか。それに安心しなよ、あたしもあんたに借りなんて作りたくない」
「ああそうかよ、せいぜい気張っとけ。……もうひとつ」
「うん?」
「……なんでわざとらしく俺から目をそらす。前は、昔はそうじゃなかったよな。俺はてめえなんざ大嫌いだが、昔はその点だけは買ってた」
「…………っ!?」
いつの間にか完全に止まっていた足、今日最後の光に照らされた世界、自分とアルベル。
校舎に、この階に残っている生徒は誰もいないのか、外の運動部の元気な声だけが響いてそれがやけにこの階の静かな空気を強調する。その静かな空気に今の自分の鼓動がばれてしまわないか、なぜか一気に上昇しているこの頬が、きっと赤い顔は夕日で誤魔化すことができているだろうか。
静かにじっと自分を見ている、この視線を、アルベルの視線を今すぐどうにかシャットダウンできないものだろうか。
数年ぶりの再会に、まったく知らない顔が並ぶ中の見知った顔に。あのときから、いや、ひょっとしたら互いに学生だったあのころから。
もしかしたら特別な感情を抱いていたのかもしれない、なんて。
そのまっすぐなまなざしが、――怖かったのかもしれない、なんて。
向けた心を踏みにじられるのが、ただ怖かったのかもしれない、なんて。
思って、ネルは首を振る。そんなの気の迷いだ、何かの間違いだ。騒ぐ心も胸でざわめく心も、すべてすべて気のせいだ。自分はこの男をなんとも思っていない。怯えてだっていない。無愛想で不器用でその分まっすぐなこの男が。男として気になる、なんて。
「……気の、せいだよ……気にするんじゃないよ。
ほら、会議はもうはじまってるんだ、早く行かないと」
「そうかよ。――阿呆」
もしかしたら彼の心を、自分の言動が足蹴にしているのかもしれない、なんて思ったときには。たった今まですぐそこにあった背中が、なんだかずいぶん前に歩いていて。
それになぜか心が跳ねた、なんて。
そんなの、
