――ばかだね。
そうして微笑んだ女に。
心が、突き動かされる。
「……なんだいいたのかい。せめて照明つけるとかしなよ、いないと思っただろ」
「知るか」
慣れた気配がふと彼を見下ろして、ため息まじりの苦笑が降ってきた。寝台に横になったまま気のない声を上げて、アルベルはふと、すぐそこにある細い手首をつかむ。
ぴくんと細い指先がはねて、けれどそれ以上の反応がないから。
それに甘えて、軽く女の手を引いた。あっけなくバランスを崩した女が倒れ込むのを、いつものように抱きとめる。
「……なんだい、あんたは」
「知らねえよ」
技術の差なのか、照明を落としてしまえばどこからも光が入ることのない密室。光も、そして音も完璧に遮断された部屋。それでも息苦しくはないし圧迫感があるわけでもないのが、ああ、本当にこのあたりが技術の差なのだろう。
反銀河連邦組織、クォーク旗艦ディプロ。その一室、彼らに割り当てられた部屋で。
のびやかでしなやかな女の身体を、何とはなしに抱きしめながら。アルベルの頭が、ぼんやりと思う。
「まったく。なんなんだい、あんたは」
「知らねえって何度言や分かる、この阿呆」
「アホはどっちだろうね? イイトシしてあんたはさ、」
「……分かってんなら黙ってろ」
睦言というわけでもないけれど、お互い声をひそめてささやき合って。
――ほんの少し前まで、まさか自分とこの女がこんな関係になるだなんて、彼女も彼自身もまったく思っていなかった。過去を思えば互いに得物を手ににらみ合っていた記憶しかなくて、そんな過去に対して現在この状況がいかに突飛かとなんだかしみじみ思ったりする。
憎み合っていた、嫌い合っていた。同じ場で同じ空気さえ吸いたくはなかった。
自国の未来を思えば互いが邪魔でしかなかったし、それを思わなければ関わり合いになりたいとさえ思わなかった。自分に従うというならぎりぎり存在を認めてやっても良いけれど、立ちはだかるなら容赦なく斬り伏せてかえりみることさえもったいない。
――確かに、少し前まではそうだったのに。それ以外を考えずにすんだのに。
照明がなくて目が利かなくて、だから触れた肌だけで女を感じ取る。腕の中の女はくすくすと笑う程度に上機嫌で、ただそれが嬉しい。逃げようとしない態度が、それだけで嬉しい。女を構成するすべて、そのカケラさえなんだか愛しい。
自分がそんな心を抱くこと自体が奇跡だと思うし、その奇跡を分かっているのかいないのか女はどこまでもおとなしく彼の腕の中に納まっていて、
「……何がおかしい阿呆」
「おや、黙ってろってあんたが言ったんじゃないか」
「揚げ足取るんじゃねえよ」
「そうかい?」
女の手が彼の胸につかれて、離れない程度にほんの少し距離が生まれる。照明を落とした闇の中、けれど暗がりに慣れた彼の目には女の目が見える。機嫌良くゆるんでいる口元が見える。
何を言い出すかと黙って見ていたなら、きっとそんな彼が見えている女はさらに笑った。
細い指が彼の頬を撫でる、こそばゆさに目を細めればふわり、くちびるに何かが触れて、
「よりにもよってあんたと、今、こんなトコでこんな風にしてるなんてね。自分の馬鹿さ加減に笑ったのさ。何が狂ってもこんなことにはなってなかっただろうし、そもそも互いにさ、今生きていなかったかもしれないじゃないか。
――ああ、これは奇跡なんだねって思ったら、ほら、笑えてくるだろう?」
――シーハーツとアーリグリフが、なんて言っていた、施術兵器がどうとか戦争がどうとか言っていたあのころには、まるで想像もしなかった。自分たちが星の船に乗るだなんて。それも、当時いがみ合っていた敵国の将なんかと。
――しかも、同じベッドで休んだり、あまつさえ、
ぶつぶつ続けるくちびるを、今度は彼が封じる。同じことを思った、それが嬉しくて身体が動いていて、――なんとか怒らせずにすんだようで、またくすくすと笑いが生まれて、
「考えてみれば、あたし、恋とか愛とかそんな感情、すっかり捨てたつもりだったんだよ。隠密としてこうなくちゃならない、それだけで動いてさ。ヘタしたらシーハーツって国さえ好きじゃなかったのかもしれないね、仕えなきゃいけないってそんな気持ちだけでさ。
――どうしてくれるんだい、せっかく封印してた心を、あんたが呼び起こしちまったってことじゃないか」
言いがかりのような、事実言いがかりの、決して彼を批難しないつぶやき。唇をとがらせて文句を言いながら、そうすることで礼を言っている。
くつくつ、いつの間にか彼ののどの奥がなっていて、笑いをかみ殺すことができなくてそれがずいぶん機嫌が良いように思えて。そんな自分にさらに笑って、女もまた笑って、
「――お互いさま、じゃねえか。
俺だってこんな心、忘れてたってのに。ああ、面倒ばっかりのこんな心、せっかく凍りつかせてたってのになあ? 強けりゃそれでいい、義なんてそこから生えるって、信じてたんだがなあ??
てめえのせいだ、凍り付いてた心を溶かしやがって」
――責任取りやがれ。
つぶやけば、二、三度瞬いた女があははと笑う。女が笑うたびに彼の心がざわめいて揺さぶられて、けれどそれは決して不快ではなくて。
女にとって彼の笑みは、同じように心を揺すっているだろうか。
マイナスではないプラスの意味で、心を動かすことができているだろうか。
そうだといい、と願う心、馬鹿げた心をあざ笑う心、すべてがどうでもいいただこの時間がこの女が手に入るならそれでいい、なんて思う心、――それ以外の、何かを思う心。
心を読むことはどうやら彼よりも数段上の女が、そしてふっと息を吐いた。
暗がりの中、何も見えない中、けれど闇に目が慣れれば輪郭が見えるようになっている、
そんな中。
――ばかだね。
そうして微笑んだ女に。
心が、突き動かされる。
どこかに沈めた心は、きっと互いに。
互いの声で、呼び起こされた。
