まっすぐな挑むようなこの目に。
――今は負けておこうかなと、そう思わないでもない。本当は。
「……ねえ、ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ」
「あ? 今さら何を、」
「今さら……そうだね、ああ、確かに今さらさ。けどね、どうにも気になることがあるんだよ」
そうつぶやく女は、まるでこのまま斬りかかってくるのではないかと思えるような、そんな目をしていた。殺気はない、けれど。けれど本当に、そうとしか表現できないような、強い強い挑みかかってくるような目をしていた。
ざあっと鳥肌の立った腕を誤魔化したくて、だから彼もその目を見据える。強く強く、けれどにらむわけではなく。
この腕に閉じ込めた女は、そんな彼にそれこそ挑むようにふっと笑って、
「――あんたはあたしの名前を、ちゃんと知ってるかい?」
それはまるで熱っぽく、けれどどこまでも静かにつぶやいた。
――なに言い出すんだてめえ。
そう笑い飛ばすことができたならどんなに楽だっただろう。けれど女はそれを許さずに、どこまでも真剣に強い目で、ただ挑むような笑みを浮かべたまま、
「不本意でも何でも、あんたとこんなことになっちまってさ。すごく不本意でもあんたに愛着を感じて、ものすごく不本意でもたぶん真剣になっちまったんだろうね。
それは良いのさ、仕方ない。そうさ、仕方ないんだ。
きっとあんたは、……多分あたしのこと嫌っちゃいないだろう? あんたはそんなやつじゃないしね。それは分かってる。でも。でも……さ。
知ってるかい? あんた、一度だってあたしの名前、呼んだことないんだよ。
今まで、本当にただの一度も」
喧嘩を売るような台詞を口にしながら、女の腕は彼の背に回っていた。最初はまごついて行き場を探していた腕も、今ではちゃんと居場所を見付けておさまりの良い場所でぎゅっと彼を抱きしめ返している。
互いの吐息を唇に感じるようなこの距離も、互いにすっかり慣れてしまった今。
今さらの挑むような質問を口にして、女はどこまでも強く美しい笑みを浮かべていて、
どくん、と、血がめぐる音を彼の耳の奥が聞いた。
女の名前、なんて。
知っている、ちゃんと分かっている。
当たり前だ、女は彼にとってそれだけの価値のある存在だから。
ネル。ネル・ゼルファー。
当初は互いに互いの生命を狙っていたはずなのに、今では違う感情を、多分お互いはさんで相手を見ている。
――触れたい、抱きしめたい。声を聞きたい、叶うならもっともっと。
これほど貪欲だった自分を女に逢って彼ははじめて知ったし、どうやらそれは女も同じだったようで。あるいはそれを悔しいと思う気持ちも共通、今では互いに抱いた執着心も、きっと。
そう、きっと。きっと女も自分と同じような感情を抱いていると思ったし、思うことで満足したかった。本当は違うかもしれない、それをわざわざ知りたくはなかった。
それだけ女は彼の中で特別になっていて、
けれど――ああ、そうだ。言われてみたなら、確かに、
「そんなの……てめえも一緒だろ。修練場でお前と会って以降、お前、面と向かって俺の名前呼んだことはなかったよな」
「あたしはちゃんと分かってるよ。だって、そうさ、最初に逢ったときちゃんとあんたの名前を呼んだ。
でも、……あんたは? あんたは本当にあたしの名前、知ってるのかい??」
まっすぐな目、強い目、美しく――言いようもない寒気を呼ぶ心地よいまなざし。彼の視界は今女だけで埋め尽くされていて、それはたとえようもなく心を浮き上がらせる。
浮かれる心を押さえつけて、彼はただにらむでもなく女を見つめたまま、
「なんだ……名前を呼んでほしいのか? 阿呆」
笑い飛ばそうとしてみる。うやむやにしたいと。けれど女は素直にこくりとうなずいて、その間も視線が外れることはなくて、
「そうさ。……今さらだよ。本当に今さらだけど、でも――不安なんだ。
一回で良い、とにかく呼んでみてくれ。易いもんだろう? それだけで良いんだ」
腕の中の女は、どこにも不安になど思っていない目でどこまでもまっすぐに彼を見据えている。
まっすぐな挑むようなこの目に。
――今は負けておこうかなと、そう思わないでもない。本当は。
けれど、自分でもあきれるくらい彼はひねくれ者だから。
「そうだ、な……」
にやり、と。さて何を条件につけてやろうかと、
思いながら口の端を持ち上げる。
