ばかだね、と思う。
なんてばかなのだろう、なんておろかなのだろう。
……そして同時に、なんて淋しくてやさしくてどうしようもないやつなんだろう。

―― Jeder Grundlage entbehren

「……ねえ」
どこかの崖の上で、何とはなしに遠くを見ている背中にネルは小さく声をかけた。振り向きはしなかったけれど風に揺れる髪ではなくて身体がかすかにはねたので、あとはわざと足音を立てて近づく。
「かえの包帯、持って来たよ」
「誰も頼んでねえよ」
細身の男の左がわに立てば、ふいと顔を背けられた。一瞬だけ腹を立ててからふっと息を吐いて、それから視線を落とす。口の端を曲げるような、揶揄に似た苦笑を浮かべる。
「……鉄爪さびるよ」
「うるせえ」
だらんと、まったく力の抜けた状態でそこにある鉄の爪。先ほどの戦闘のあとを色濃く残して、血にまみれたままそこにある冷たい武器。……あるいは赤くまだらに染め上げるそれは敵の血だけではないはずだ。無茶で無謀な戦闘は彼の身体をも傷つけている。
きっと分かっているのにどうもしないのは。それは、

言いかけて、息を吸ってそこでやめた。
動こうとしないアルベルの腕を有無を言わせず力任せに取り上げて、かっと何かを言いかけるのに目を向けたなら、ぐっと息を呑むとまた顔を背けられた。今度はまったくかまわずに血にまみれた止め金に手をかける。多少もたついたものの何とかそれは外れて、手近な岩に静かに立てかけて、その下にあった男の左腕を凝視する。
「あきれたね、傷だらけじゃないか」
封印のようにかたく巻きつけられていたはずの包帯がずいぶんゆるんで、その下の肌がところどころ見えている。竜の炎に焼かれた無残な痕、そしてその後何度も傷ついたらしい古傷。ひょっとしたら男自身がこうして傷つけたのかもしれない痕。
それでも今回の戦闘ではここに傷を負ってはいないようだ。
ちらりと見上げたなら相変わらず紅はそむけられたままで、その口元は憮然と閉じられていて。
――だからネルも何も言わない。

◇◆◇◆◇◆

やつにとっての左腕の意味なんて、もうとっくに分かっていた。本当は最初に直接相対したあの時点で知っていたけれど、今ではもう、掛け値なしに本当によく分かっている。
ばかだね、とネルは思う。
なんてばかなのだろう、なんておろかなのだろう。
……そして同時に、なんて淋しくてやさしくてどうしようもないやつなんだろう。

◇◆◇◆◇◆

「――はずすよ、取りかえる」
返事はないけれど拒否の声もなかった。崖下から吹き上げる風に髪を揺らすほかは微動だにしないで、つまり逃げもしなかった。どういうつもりかは分からないけれど消極的な肯定と取って、ネルは男の腕に触れる。
冷たいような熱いような肌に触れた一瞬、かすかにそれがはねたような気がして。
何気なく目を上げたなら、紅がなぜかまっすぐ彼女を射ていて。
怒りと哀しみと混乱と淋しさが入り乱れたあげく全部が打ち消されたような、そんな意味での無表情な瞳がそこにはあって。
――けれど男は何も言わないから。

――本当に本当に、どうしようもないやつだね。
ふわりとネルの口元がゆるんだ。すべて受け入れるしなやかな笑みに男の顔がぎくりと固まって、

――凍りついた時間が流れ出すまで、きっとあとほんの一息。

―― End ――
2006/10/11UP
アルベル×ネル
OFP
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Jeder Grundlage entbehren
[最終修正 - 2024/06/21-11:19]