どっちでも、いいと思った。
とろりとまとまらない頭のすみが、そんなことをつぶやいた。
かろん、まろい音を立てて溶けた氷がグラスの中で崩れた。その音に緩慢な動きで持ち上がった紅の目に、同じ音でふと振り向いたネルは。彼の紅になんだか目が心が吸い寄せられるようで、そんな自分に愕然とする。
――なんで、
――……こんな、の。
思うのに、けぶる紅が動かないためにネルも目をはなすことができない。
どくどくどく、いつか早く大きくなっていた鼓動が身体の内がわから響いてくる。
空ははや宵闇の色に染まり、けれど寝るにはまだ早い、そんな時刻。他の仲間たちはそれぞれ気ままに食事やら買いものやらに出かけて、宿には今、こまごました武器類の手入れをするため残ったネルと、何もする気が起きないとどこからか酒を持ち込んだアルベルの二人しかいなかった。
そのまま双方特に何の会話を交わすこともなく、ただしばらく時間が過ぎて。
外からの喧騒が時おり聞こえてくる以外は、基本的に静かな時間がただ過ぎて。
――そろそろいい加減にしときなよ、
――明日の朝には出発なんだ、二日酔いだろうが容赦なく引っ張って行くからね?
そんな注意の声をそろそろ上げようかと思っていたところだった。こまごまとした武器類はもうほとんど手入れが終わって、つまりネルのやるべきことはカタがつきそうで。だからクダをまいている男にそう声をかけたなら、軽い食事でも取るために彼女も外に出ようと思っていたところだった。
どうやら強い生の酒を、つまみもなしにただなめるように呑み続けていた男に、
――ひとりで呑んで楽しいものなのかい?
アルコールの苦手なネルは、そうだ、酒の味なんて分からないなりにそんな軽口だって叩こうかなと思っていて。
思っていた、はずなのに。
敵だった、敵でしかなかった。憎んで怨んで、けれど何の因果か肩を並べて闘うようになった。一度そうなってしまえば、共に行動するようになれば。思い込みで視野が狭くなっていた自分を思い知った、一緒に行動してみれば、多少変なところはあるもののこいつは案外普通の男だった。
憎しみの心も怨みの心も、忘れたわけではないけれど。それでもいつしか、とがった心は角を丸くしていて。
だからといって決して、……許したつもりも許されたつもりも、なかったはずなのに。
男を異性として、特別な目で見るなんて。
そんなこと、――けっしてありえない、はず、……だったのに。
――なんで、
――なんで、あたしは……?
混乱する頭とは裏腹に、やはり紅の目に吸い寄せられるようで目が外せない。手にしていた武器を置いて、いつか立ち上がっていて。目だけではなく身体ごと吸い寄せられるようにふらふらと男に近寄っていくこの身体が、まるで自分のものではないようにさえ思える。
視界には紅の色、それしか映らなくて。
たどり着いてしまったならどうしたいものか、自分の心さえも見失っていて。
熱のないようで、その実溶岩のようにどろどろに熱いようで、温度をはかりかねるその紅。
大雑把にしか見えなくてけれど実は繊細なのかもしれなくて、まるで分からないその心。
散々他者を傷つけてきながら、別にそのことに傷ついたわけではなくて、けれどそれとは別に負った大きな傷を癒そうともしないままただ抱き続けているような。愚かで淋しい、その生き方。
矛盾する感想を抱かせる、実体をつかませない男。
いや、本人は特に何をするわけでもなくそこにいて、存在している、ただそれだけで相対する人間にそういう感想を抱かせているだけ、なのか。
――……いつから、だい……?
唐突に自覚して、ネルは混乱から立ち直ることができない。ゆっくり近寄るそんなネルを、見ているはずなのに男は動かない。
距離を近くすればするほど、くらくらする。息さえ苦しいほどに激しい動悸、心臓が身体を突き破って外に飛び出してしまいそうにはねている。きっと酔ったように耳まで赤い顔をしているだろうと、なぜか頭のすみに居残った冷静な部分が上ずった声で自分に告げる。
――ねえ、あたし。
――いつからこいつを、そんな目で見るようになっていた……?
――嫌っていただろう、憎んでいたはずじゃないのかい。
――なんでだい、いつからだい。
――あたしはあたしを、いつから見失っていたんだい……?
吸い込んだ空気に、酒のにおいが混じっている。それは多分男の手にあるアルコールのせいで、あるいは男の呼気のせいで。むせ返りそうになるその空気に、頭がくらくらするのはそのせいだと自分をなだめようとして、けれど思い付いたうちの後者ではとても落ち着くことができるはずもない。
視界がうるんで息が苦しくて身体が熱くて。
紅が、動かなくて。
声の出し方を思い出すことが、できない。
「……なんだ」
そして聞こえた声に、びくりと大きく身体が跳ねた。いつもよりも低くてかすれたような声に、身体の内がわをざらりとなめられたような感じがする、なんだかぞくぞくする。
ソファにふんぞり返った男に、アルベルに、彼と同じソファに片膝乗り上げてその整った顔を頬を両手で包み込んでいるネルが、気が付いたなら、いて。彼女を縛る紅が、多分にやりと笑うように細くなっていて。
声の出し方を思い出すことが、できない。
「酔った、みたいだ……あんたのせいだ」
声の出し方を思い出すことが、できないはずなのに。
……まるで上ずった声が、自分の口から上がっていた。
そしてもてあそんでいたグラスをテーブルに落ち着けたのだろう、ことん、という音がやけに遠くに聞こえて。
そしてアルベルの手が自分の方にのびてくるのに、他人ごとのようにそれを見つめながら、
今まで以上にはねているこの心臓が、怯えきっているようで逆に歓喜を伝えるようで。
どっちでも、いいと思った。
とろりとまとまらない頭のすみが、そんなことをつぶやいた。
――アルコールにか、
――この男にか。
この酔いの理由なんて。
――……そんなの、もう、どうだっていい。
ただ、いつか生まれたこの耐えがたい熱が。
どうにかしてもらえるのなら。
