死ぬまで、たとえよどみは薄れたとしても。それが消えることは、ない、と思っていたのに。
この赤は、……この、赤には。
――それは、世界の危機だったらしい。
人伝に聞いたそれを思い出し、アルゼイはただ口の端を持ち上げた。
――何もしなければ、この国の誰もが知らないところで崩壊は進み、いつかすべてがなくなっていたらしい。
漠然とした、けれどそれが事実だとすればこの上もなく深刻な事態。それが事実だと納得するだけの証拠はどこにもなかったけれど、逆にまったくの与太話だという証拠もどこにもない。いつの間にか信頼を寄せていた彼らが心底真面目に報告した、ということだけが唯一確かなことではあるものの。
ともあれ。
――かくして彼らの活躍により、世界は救われたのでした。
物語なら、それに続くめでたしめでたし、の言葉でしめられるだろうけれど。
あいにく彼は今も生きているし、こうして人伝の話を思い出す程度にはそれから時間も過ぎていた。
何よりその物語、あるいは英雄譚のまぎれもない主役の一人は、以前と変わらないぶーたれた顔で彼のそばに控えている。腕っ節は比べものにならないほど強くなったくせに、人間的にはそれなりに成長したくせに、一見したところはまったくもって変わりがない。
そう、たとえば。
「……何をにやにや笑ってやがる」
たとえば、こうして仮にも主のはずの彼に対して、ガラの悪いツッコミを入れるところとか。
「いや、何。思い返していただけだ。いろいろと、な」
時間としては、午後を回ったあたり。場所はアーリグリフ城の一角。
いろいろあってアーリグリフくんだりまで嫁に来たシーハーツ出身の妃の元に、元同国の最高位隠密が遊びに来ていると聞いたのが昼のこと。正式な挨拶は後ほど、と続いていたけれどちょうど公務のスキマで暇をしているのもあって、アルゼイは妃の私室を訪ねていた。
「……奥歯にモノはさんだ言い方するな、王よ」
いつにも増して苦虫を噛み潰した顔の部下に、心底からの胡散臭い笑顔を浮かべてやる。ますます歪んだ顔をさらにからかうことにする。
「――じゃあ白状してやろう。
お前がはじめて登城したときのこととか、お前がはじめて俺に挨拶したときのこととか、お前がはじめての任務についたときのこととか……」
「何が、じゃあ、だ! もういい黙ってにやついてろ!!」
「あんた、黙って聞いてりゃ王様に対してなに怒鳴ってんだい! 礼儀作法ってもんが身に付いてないなら城なんかに詰めるんじゃないよ!!」
私室には妃がいて、シーハーツ最高位隠密のうち赤毛の方がいて、二人して――いや、どうやら妃付きの侍女も巻き込んで午後のお茶とやらを楽しんでいた。アーリグリフには根付かなかった優雅な風習を部屋の入口からしげしげ眺めていたら、侍女はいつの間にかそそくさと姿を消していて、そのかわりというわけでもないだろうけれどよろしかったら王もいかがですかと妃が誘ってきた。
そして結果的に、卓についているのは現在四名。
王自身と、妃と、隠密と、……そして城内だから必要はないはずなのに護衛の名目でくっついてきた漆黒団長。
みごとな手さばきで妃みずからが淹れた茶のカップをかたむければ、遠い昔の懐かしい記憶がよみがえるようだった。シーハーツに留学していたあのころの、今だってきっと変わっていないだろうと確信させる女性の姿を。
あるいはほろ苦いかもしれないそれを振り捨てたなら、先ほど漆黒団長をからかった台詞が頭に残っているのか、それこそ幼かった姿がちらりと目をやったぶーたれた顔に重なる。
重なるようで、いや、……重ならない。
先祖の血が出たとかいう赤い目が向いているのは、つい先ほど愉快な漫才を見せてくれた片割れ、赤毛の女隠密だった。
アルゼイは気付いた瞬間、今度こそ愉快な意味で口の端を持ち上げる。その笑みの意味を、今度ばかりは自覚する。
赤い目が向いている先、その目が示す感情。幼いとはいってもそれなりに剣を扱うようになった以降しか知らないけれど、それなりに長い付き合いの間、一度だって赤い目がこんな色に染まったことはなかった。あるいはアルゼイの片腕だった、本人には父親だったあの男を亡くしてからは、この赤はもっと昏くもっとにごった哀しい色をしていた。
死ぬまで、たとえよどみは薄れたとしても。それが消えることは、ない、と思っていたのに。
この赤は、……この、赤には。
長い付き合いだから、知っている。
――基本的にこの馬鹿は嘘が吐けない。
――根本的にこの馬鹿には一度に一つのことしかできない。
ちらりと見れば、愉快に笑うアルゼイにつられたように妃も心底の笑みを浮かべていた。遠い昔のあの淡くて一途な恋心とは違うけれど、複雑なりに真面目に抱いている心を確認した。
――ああ、血にまみれた自分がこんな感情を抱く今なら。
――今だから、こそ。
「……なあ、アルベル」
「今度はなんだ、王」
「結婚しないか?」
……ぶはッ、
と、アルベルは口に含んだばかりの茶をふき出した。がちゃんとあちらでカップを取り落としたのは果たして妃だったか隠密なのか、ともあれ。もちろん意図して妙な言い回しをしたわけで、思惑以上に面白い反応をしてくれたかわいい部下にアルゼイは爆笑する。
どうやら気管に茶が入り込んだらしく、苦しそうにむせながら恨みがましい顔がすごんでくるけれど、一国一城の主をおびえさせるにはその涙目は少しかなり役者不足だ。
いまだむせ続ける漆黒団長の背をかいがいしくさすっている赤毛の女隠密に、アルゼイは、これは悪意も邪気もない笑みを向けた。一生懸命彼ではない男の世話をする彼女にそれが見えていないことなんて、承知の上で。
――なあ、この馬鹿をもらっていただけないか。
――一人では泥沼に沈むばかりで、浮上してきやしないこの不器用な男を。
――あなたが一緒になってくれたなら、こいつもようやく人並みのしあわせってやつを理解するだろう。
そんな爆弾を投下したなら、さて、今度はどんな反応が返ってくるだろうか。
――俺が保障する、こいつに浮気するなんて甲斐性はない。
――変に真面目だからな、あなたのこともきっちり幸せにするだろう。
畳み掛けるように、こんな連続攻撃をもしもしかけたなら。
血なまぐさい過去を共通する、かわいい部下にして漆黒の団長とその名に恥じない実力を備えた、相変わらず苦しそうにむせている男に。そしてそれなりに長い付き合いの中、この男にはじめての表情を作らせた赤毛の女隠密に。すっかりおろおろとしているものの、どうやらうすうす勘付いてくれている彼の妃に。
そして、アルゼイ王は口を開いた。
……ああ、それはなんて充実した毎日だろう。
