暗闇がこわいのは、

―― Eine merkwurdige Geschichte

「うー……失敗したなあ」
ソフィアは一人廊下を行きながらつぶやいた。

現在地、カルサアの宿屋アイアン・メイデン。深夜。
ソフィアの目にもあまり余裕のないこの土地のせいなのか、それとも宿の代金やランクのせいなのか。ここの宿屋には水差しを置くというサービスはないらしい。必要なら自分で用意しておくべきなのに、ついそれを忘れてしまって。
深夜、ぼんやり目を醒まして喉の渇きを覚えてしまったあとで、そのことに気が付いて。
最初は、朝まで我慢しようと思ったソフィアだけれど。寝入ってしまえば気にならないと、また寝ようとしてみたけれど。意識してしまったせいなのか渇きはどんどんひどくなって、焦りのせいなのか眠気はどんどん遠ざかって。
――バカだなあ。
自嘲しながら階下の食堂で水をもらってくることにした。

◇◆◇◆◇◆

「なんで忘れちゃったんだろう……ずっと覚えてたのに」
ぶつぶつつぶやいているのは、ありていに言ってこわいからだ。
今日に限って三つもある月が一つも出ていなくて、というかそもそも雲行きが怪しい。おかげで月明かりが期待できない。もしもここが生まれ育ったあの星なら、夜でも煌々と明るい場所はたくさんあるし、曇っている日は雲にその光が反射してむしろ周囲がまんべんなくうすぼんやり明るいくらいだけれど。未開惑星の、しかも豊かな町ではないここでは――夜といったら月明かりも星明りもなかったら、真っ暗闇だ。
黒、どこまでも深く深く。何もない、何かを隠しているかもしれない、本当はどうなのかさえまるで分からない、
闇。
部屋に備え付けのランプは使い方が分からないからあきらめて、本当は条約違反になりそうな気がするライトで今は足元を照らしている。ランプよりもきっとずっと明るいそれは、しかし光が強い分照らし出す範囲もくっきり限られていて。
明かりがある分、周囲の闇が余計に濃くて。
だから怖くて、一度つぶやいたら音がなくなることまでこわくなった。ぶつぶつつぶやきながら脚だけはなんとか進んで、本当は背後から頭上から脇から、いかにも「何か」が出てくるのではないかとびくびくしている。恐怖に半泣きになりながら、それでもソフィアは歩く。
立ち止まることさえ、こわくて。

◇◆◇◆◇◆

「アルベルさんがいてくれたら、怖くないのに」
自分でもまとまりのないつぶやきの中、そんな言葉がふとついて出た。その無意識の言葉を聞きとがめたソフィアは、一気に赤くなる。
いつから好きだったのか、ソフィア自身でさえ分からない。最初はただすべてがこわかった。あるとき、こわい中にかすかな優しさを知った。きっとそうと知った瞬間から好きになったのだ、だとは思う。
どのみち「いつから」を知ったところで、障害がたくさんで想いを伝えることはできないけれど。
でも「好き」という気持ちは抑えられない。好かれなくてもいいから嫌われたくなくて、そんなソフィアに――うぬぼれかもしれないけれど、アルベルも無愛想なりにやさしくしてくれる。頼めば、きっとどんなにくだらないこんなことにでも、付き合ってくれる。

妄想でしかなくて、そうと自覚して。けれど、大好きな人のことを思ったらこわさが薄れたような気がした。相変わらず深い闇をライトの光でナイフのように切り刻みながら。少しだけビクつきがなくなった脚が、ただ先へと急ぐ。
――ああ、そうだ。
――アルベルさんがいてくれたなら、
――こんなつぶやきにも、いい加減な返事をくれて。
――もしもたとえ返事をくれなくても、いてくれるだけできっとこんなに怖くなくて。
――いるはずのない「何か」がたとえ出ても、きっと守ってくれる。
――そう、信じさせてくれるから。
妄想を頼りに、とにかく前へ前へ。
振り返るのは、相変わらずこわいから。

◇◆◇◆◇◆

そして無事に食堂について、喉を潤して。
なんとか人心地ついて、さあ、あとは部屋に戻るだけで。

「……あれ?」
顎に滴った水を手でぐいとぬぐって、振り返ったソフィアは瞬く。
振り返った先、食堂の小さな木のテーブルに。いつの間にか、グラスを傾けるアルベルの姿があった。
先ほど、ここに入ってきたときも、水で喉を潤しているときも。まったく気付かなかったのに。気付かなかったけれど、他のみんなと同じようには気配を察することのできないソフィアだから。
「……アルベルさん?」
小さなささやきに、緩慢に持ち上がったきれいな顔。傾けられたグラスには氷がなくて、中の液体が彼の手の中でゆらゆらと揺れても、音はない。
「アルベルさんも眠れないんですか?」
不思議そうなしかめっ面で何か言おうとするのを遮って。ぼそぼそとささやけば、それでも聞き取ったらしいアルベルが苦笑した。
薄い唇が開いて、きっと何をしてるんだ、と訊ねられることが分かって、
「ちょっと喉が渇いっちゃって……ここの宿屋、水差しがないですし」
先手を打って答えれば、ああそうかとうなずいた。うなずき返したソフィアは、ゆっくりと首をかしげてみる。
「アルベルさんも眠れませんか? お酒ですか、それ」
うなずき。
――今日のアルベルはなんだか無口だ。
半瞬浮かんだ疑問はすぐに霧散して、ソフィアはぱちんと手を叩く。
「えと、……暗くて、こわくて。アルベルさん、できたらで良いんですけど送っていってくれ……ると嬉しいんですけど」
思いがけずに手に入れた「二人きりの時間」に浮かれていたのかもしれない。
わくわくしながらアルベルの反応をうかがうソフィアに、少しだけ迷っていたアルベルがうなずいて。つまらなそうな顔をして、それでもグラスを置いて立ち上がる。
――どこまでも、音がない。

◇◆◇◆◇◆

「えへへ、でもアルベルさんがいてくれて助かりました! どうしても暗いところって怖いんですよ。何かが出てくるんじゃないか、ってびくびくしちゃうんです」
行きとは違って元気よく廊下を歩きながら。足音も物音も騒がしいソフィアが振り返れば、いつにも増してなんだか顔色のよろしくないアルベルが苦笑していた。
――今日のアルベルさんは、本当に無口だ。
いつもと違うアルベルに驚きながら、けれど元々そうなのかもしれないな、とソフィアは思う。出会って間がなくて付き合いが浅くて、把握していないことがいっぱいだから。夜とか、お酒飲んだときとか、一人で飲んだときとかは。こうして物静かなアルベルがデフォルトなのかもしれない。
一人でうんうんと納得するソフィアに、そんな彼女を面白いものを見る目で観察するアルベル。
振り返ればそれが見えて。笑われていると分かっても、やはり「二人きり」のこの状況はなんだか嬉しい。

アルベルが相槌を返してくれないので、ソフィアの口数も減っていった。
居心地が悪いわけではないやわらかな沈黙に、こういうのも良いな、好きな人とだったらこんな静かなのも良いな、とソフィアは新発見してみる。
――うん、アルベルさんが好きだ。やっぱり、好きだ。
改めて認識してうなずいて、そのころにはいつの間にか部屋にまで戻って来ていて。
「あ、ありがとうございましたアルベルさん、今度埋め合わせに何か料理でも、」
部屋のドアの前で、アルベルに振り返ったソフィアは。
――何も存在しない「闇」ばかり広がる空間に、目を瞬いた。
……あれ?

◇◆◇◆◇◆

――そういえば、今日はアルベルはこの宿屋に泊まっていない。
――後見人のウォルター老が呼んでいるから、そちらに泊まると言っていた。
――絶対何か面倒押し付けやがる気だ、とかぶつぶつ文句を言っていた。
――そんなアルベルを見送っていたから、そうだ、だから水の用意を忘れたんだ。
――無口だったのも、物音も何もなかったのも。
――じゃあ、それって。それって、

ざわっと二の腕に鳥肌が立った。
ドアノブにかけていた手が震えて、力が抜けて、持っていたライトを取り落としそうになった。いっそ意識さえ遠ざかりかけて、額をがつんとドアにぶつけて。きっと大半が痛みから、涙目になったソフィアは何度も瞬く。
――生霊、とかとは違うと思う。
――自分に霊感なんてものはない……というか、そもそもアルベルはまだ死んでいない。
――妄想が暴走した目の意識の錯覚かもしれない。
あるいは、
あるいは、アルベルも自分のことを気にかけていて。それがソフィアの願いと一緒になって、引き起こしたのかもしれない。
……そうだ、忘れていたけれどソフィアはコネクションの能力を持っている。無意識に、あるいは先ほどの願いに混ぜて。アルベルを呼んだのかもしれない。
アルベルが、その呼びかけに応えてくれたのかもしれない。

◇◆◇◆◇◆

すべる手で震える手でノブをつかんでドアをなんとか開けて部屋にすべり込んで。がくがく笑う膝をだましだまし、ベッドに倒れ込んで。
動揺している自分の、その動揺の理由が絞りきれなくて何よりそこに戸惑いながら。
ソフィアは目を伏せた。
――自分の呼びかけにアルベルが応えてくれた、そうであってほしいと。
――だから、明日朝一番にウォルターの屋敷にいるはずのアルベルを訪ねに行こうと。
そんなことを思いながら。
あるいは「失神した」というのかもしれない。ソフィアの意識が遠くなっていく。

―― End ――
2005/07/26UP
アルベル×ソフィア
OFP
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Eine merkwurdige Geschichte
[最終修正 - 2024/06/21-11:32]