全身の血が、あの瞬間――確かに凍ったと思う。
泣き声が、聞こえた。悲痛な泣き声、何かの歌のようなさえずり。
「…………?」
眉を寄せたことで、自分が目を閉じていることに気付く。瞬間、混濁していた意識が変な風に覚醒してアルベルは飛び起きた。
もとい。
飛び起きようとして、けれど全身けだるい虚脱感に目を開くことしかできなかった。
「……ぁ?」
「アルベルさん……っ!」
開けた視界いっぱいに、七割方泣きかけた少女の優しげな顔。記憶が混乱していて、一体何があったのかまるで分からない。分からなかったものの、今では誰よりも大切な彼女を慰めてやりたい。
思った瞬間、アルベルの手は動いていた。重くて、まるで地面にめり込むそうなほど重い腕を無理矢理持ち上げる。少女のやわらかな頬に触れる寸前、
その手が、血に汚れていることに気が付いて。
中途半端な位置で動きを止めたアルベルの手に、ソフィアが自分から頬をすり寄せた。白くなめらかな肌に赤黒く血の色が走る。アルベルの心が、良心が。不用意な自分を殺したくなる。
「そふぃ、あ……」
何を言いたかったのか自分でも分からない。
――何があった、とか。離れろ汚れるぞ、とか。悪かった、とか。
言うべきことが他にもたくさんあって、どれを言おうとしたか分からない。分からないけれど、自分の口から漏れた音が情けなくなるほどかすれきっていて、そこでアルベルは息を止めた。
自分でも阿呆らしいと思うけれど。山より高いプライドが、いろいろ邪魔をする。
そんなアルベルを映すきれいな翡翠がうるんでうるみきって、ぼろぼろと涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
「あ、るべるさ……っ、よかっ……も、死んじゃう、かと、おも……っ」
「あ?」
嗚咽混じりの声が、続けて呪文を唱えて。淡い光が降り注いで、身体が軽くなる。少しだけアルベルの身体が軽くなる。
――いつもよりも、効きが悪いような気がする。……泣いているせいで、呪文が完全ではないからか?
「ソフィア、」
――悪ィ、
謝罪の言葉は音にならなくて、喉の奥に引っかかったそれを唇から読み取ったのか、至近距離の泣き顔が少しだけ微笑みの形になって、
けれどぼろぼろと涙は頬を伝って、
「な……で、」
「?」
「ど、して……たたかうんですか……? どうして、アルベルさん、……たたかわなければ、こんなけが、」
ひっく、しゃくりあげながらの切れ切れの言葉。批難ではない疑問、それもどちらかというと独白に近いそれに。アルベルはそれでも真面目に眉を寄せる。
「……てめえは、無抵抗で殺されてろでも言うのか?」
せっかくの翡翠がぎゅっと閉じてしまった。ぶんぶんと激しく首が振られて、涙の珠が周囲に散って、下から見上げるアルベルの目にはそれがきらきら光って見える。
――きれいだ、と。まるでのん気にそんなことを思う。
「分からないんです……っ、
アルベルさんのこと分かりたいのに、争わなくてもいいところでも争う、アルベルさんが、おとこのひとが分からない……」
嗚咽の合間にそんな言葉を吐き出して、さらにその合間に呪文まで唱えて。
聞きなれたその呪文のたび確かに身体が軽くなって、やがてアルベルはほっと息を吐いた。
混乱していた記憶がそのころになってようやくいろいろ整理されて。戦闘中、回復呪文を唱えて無防備になっていた少女を、その華奢な身体を狙った敵の一撃を思い出した。
「……さっきのアレなら、意味はあっただろ」
少女に攻撃が当たる前に、技をくり出してそれが当たるとは思えなかった。その一撃で敵が倒せるとは到底思えなかった。けれど身体ごと突っ込んで行ってその攻撃を受けるだけの余地はあるように思ったのだ。
だから、そうした。
結果的に攻撃は食らったけれど、かなりごっそりやられたけれど、気を失うまでの一瞬の間にこちらの一撃を入れることはできたから。それで敵は倒れなかったけれど、他のメンバーに対する時間稼ぎにはなったから。
だから、アルベルはあれで良かったと思う。何度同じ場面に出くわしても、きっと同じことをすると思う。
「アレが正しかった」とは言わない。けれど、彼にとっての確かにベストだったのだ。
アルベルの言葉に、涙が止まらない。優しい彼に涙が止まらない。
ぼろぼろとこぼれる涙がどうしようもなくて、ソフィアはぶんぶんと首を横に振った。
そんなことをしてほしかったわけではない、そんなことを言いたかったわけではない。ただ、……すべて見ていて、けれど何もできない歯がゆさを、せめて知ってほしいと思ったのに。
「ど、して……、どうして、あらそうんですか? 痛いのは、嫌でしょう?? 痛いのは、哀しいでしょう。わたし、……わたしは、」
「俺に、お前が攻撃食らうところを指くわえて見てろと言うのか?」
「そんなこと言ってないです!」
涙が止まらない、嗚咽が止まらない。さっきのあの時だけではない、いつも、戦闘のたびに胸に膨れ上がる不安を何を言ったら分かってもらえるだろう。
血を吸った地面、アルベルの血を吸った地面。その血の海の中、真っ白な顔を見ながらソフィアが何を思ったのか、どう言ったらアルベルに伝わるだろう。
「わた……わたしがっ、わたしがいいたいのは、」
「あん?」
見上げて来る紅、ソフィアの好きな色。分かろうとして、けれど分かっていない瞳に浮かぶ疑問の色。
――言いたい言葉が、ああ、頭の中にまとまってくれない。
「ど、してきずつけあうんですか……? 痛いのなんか、嫌なのに」
「向こうが突っかかってくるんだろうが、」
「戦闘のたびに、うれしそうに笑うくせにっ」
――違う、言いたいことはそうじゃない。
「どうして……っ、なんでおとこの人って強くなりたがるの!? どうしてその力で人を傷付けたがるんですか!! 争いが争いを呼んで、いつまでたっても争いは終わらなくて、」
そしてアルベルは戦闘のたびに嬉しそうに敵陣に突っ込んでいく。そしてソフィアは、答えを知っているくせにこうしてアルベルに言葉で突っかかっていく。
――ああ、人は、なんて愚かなのだろう。
――言いたいことさえ言うことができない自分はなんて愚かなのだろう。
ぼろぼろぼろ、
涙がソフィアの頬を伝う。
その頬を包んだアルベルの手に、ソフィアの涙が降りかかる。
全身の血が、あの瞬間――確かに凍ったと思う。
ソフィアが攻撃をくらいそうになったあの瞬間。
自分の身代わりにアルベルが一撃受けたあの瞬間。
――それなのに、なぜ人は争うのですか。
――痛みを知っているのに、なぜ争うのですか。
優しくて残酷な問いにアルベルの口が何かを紡ぎかけて、
答えを知っているソフィアは、ただ首を横に振る。
