足りないものだらけの自分が、
なぜ生きているのか不思議だった。
「アルベルさん?」
遠慮がちに部屋の戸がノックされて、しばらく経ってからおずおずといつもの顔がのぞいた。パーティメンバーは無愛想な彼にすっかり慣れて、いまだにノックなんてお上品な真似をするのはたった一人しかいないから。
そろそろかとちらりと目線を上げれば、ビンゴ、ちょうどのぞいた顔と目が合って。あわてて引っ込もうとするのに、わざとらしくため息を吐く。
「……いいから、入ってこい」
「はい……」
そんなに緊張するほどのことか、そんなに怯えるほどのことか、と。言いかけて、そんな皮肉を言いかけたところで、彼はやはりやめた。
――そのとおりじゃねえか。
別に誰からも説明されなくても分かる、平和そのものの世界に生まれ育ったのだろう少女。そんな彼女とアルベルは、血のにおいのする世界しか知らないアルベルは、きっと正反対で。
だから、少女が怯えるのは当然だと自嘲した。
それに対して何か思おうとした自分を、自嘲することで止めた。
「……で、何の用だ」
「え、あ……あの、そろそろ、もう少しで出発するみたいだったので」
「ふん……?」
「いつも、アルベルさん遅れがちで……みんなも、アルベルさんのこと、置いて行こうとするみたいに思えて。ううん、それは考えすぎにしても、アルベルさんがそろわなくても、フェイトなんか「これで全員そろったな」とか言ってすぐに出発しようとするから。
だから、……だから、少し早めに声をかけておけばって、思って、それで、」
ちらりと見れば、おどおど怯えた目が訊きもしないことまでべらべらしゃべる。それだけこの少女を怯えさせているのだろう。自分は。
それとも、屋内だろうが相手がパーティを組んでいる相手だろうが、武器を振り回すと思われているのだろうか。そんな風に吹き込まれて、否定できない言動を普段しているのだろうか。
馬鹿らしくなって息を吐けば、そういえば突っ立ったままだった少女は少し跳ね上がった。
怒るより先に呆れが頭を占めて、アルベルはもう一度息を吐く。
「……あの!」
「あ?」
――分かったからとっとと行けと言ったなら、それさえも怯えさせてしまうだろうか。
ぼんやりアルベルが思ったところに、勇気を振り絞ったような声。ちらりと目を向ければまたもやびくんと跳ね上がって、かあっと朱ののぼった顔が、しかし見るからに怯えながら目をそらしたりはしないで、
「腕……、」
「?」
「け、怪我しているなら、癒しますよ……っ!? あ、でも杖持ってこなくちゃ、」
「阿呆、必要ねえよ」
わたわたわた。焦りからばたつく姿に、これは笑うべきかと思いながらさらに息を重ねれば、
「そう、……そうですよね! 何も杖なくちゃ術が使えないわけじゃないですよね!!」
「そうじゃねえ」
彼女の視線が向いた先、包帯を巻きなおしていた左腕。説明が面倒臭くなって全部ほどけば、
見るからに醜い、彼の罪がそこにあって。
「今さら、どうしようもねえよ……こんなもんに術かけるだけ、精神力の無駄だ」
ひっ、と大きく息を呑んで、引きつった悲鳴を無理やり押し殺したような。
いかにもショックを受けた少女に、そういえばこれを直に見せたことはなかったかと彼は少し後悔した。ひょっとしたら、誰からも彼の過去の話を聞いたことがなかったのかもしれない。心がまえのないところにこの火傷痕は、確かに荷が勝ちすぎているかもしれない。
なぜこんなことをしてやっているのだろうと思いながら、アルベルは感覚の鈍い肘をゆっくり曲げてみせる。
「問題ねえ、見た目はともかく動かすことはできる。……もう治った傷だ、治癒の術じゃどうしようもねえよ。
もういいから、とっとと出てけ。お前にできることは何もねえ」
普通に生きていれば逢うこともなかった相手だ。無駄に嫌な思いをさせるつもりはないし、無駄に気を使うつもりもない。血みどろになる戦い方しか知らないアルベルにとって、戦闘最中の治癒の術はありがたいけれど。それ以外の場所で、何も無理させてまで無理してまで、相手に合わせる必要はないと思う。
心底そう思うから、思いながら何ごともなかったように、いつもどおりに包帯を巻きなおそうとして。
そこにのびた、大きく震える小さな手にぎゅっと眉が寄ったのが分かる。
「邪魔を、」
「ほ、包帯巻くくらいならできます……! せっかくここにいるんです、させてください!!」
なぜそんな使命感に燃えるのか、懸命な翡翠が舌打ちをしたアルベルを映していた。細かく震えている、怯えている自分に気が付いているのかいないのか、その手が無理にも彼の手から包帯を奪おうとする。
半瞬ムキになりかけて、そんな自分の馬鹿さ加減に大きく息を吐いた。
投げ渡すように彼の手から離れた、細く長い布を少女が床に落とさないようにあわてて拾い上げる。鈍くさいと思っていたわりに存外器用に包帯のはじを見つけて、小さな手が、どうしてもやわらかな手が彼の左手に躊躇しながら触れて、
「……巻くならきつめに巻いておけ」
「で、」
「ゆるいと戦闘中邪魔なんだよ。できねえなら出て、」
「やります!」
彼の言い方だろうか、彼女の性格だろうか。呆れの息にムキになった声。別にここまでと呆れるほど、器用に丁寧に、思ったよりも早く――しっかりきつめに、巻かれていく布の束。
何をしに来たのか、声をかけに来ただけのはずの少女が。感覚の鈍い、温度も感触も遠くてひどく分かりづらい、当然動くにも制限のある左腕に包帯を巻いている。同じものを見下ろして、きっとまるで違うことを考えながら。正反対と言っても良いだろう道行きが、
今ここで重なっている、それが無性に居心地が悪くて。
「てめえは、怖くねえのか?」
いつの間にか怯えの抜けた少女。緊張はあっても、小さくはならない。
「怖く、」
ゆるく振られた首、左右に振られてぱっと散った髪。けれど少女はうつむいていて、今どんな顔をしているのか見えなくて。
右手で顎をつかんで持ち上げて、アルベルは困る。両手で包帯を巻く少女は、手がふさがっているために逃げることもできないらしい。
ぐっと持ち上げられた勢いで散った涙が、きらきらと彼女の周囲を彩っていて。
「……お前は、」
「分からない……分からないんです。怖くなんかないです。もう、怖くなんかない。でも、涙……なんでか、出ちゃって、理由、分からなくて、」
言う間にもまたひとつ、ぽろりと頬を伝ったものを彼の右手がさらう。
――足りないもの、彼から欠け落ちたもの。あの日、父と一緒に亡くした涙を、この少女が変わりにこぼしているようだ。それだけではない、彼が失くしたことごとくを。彼とはまるで正反対の位置にいるからこそ、少女はすべて持っているようで。
それを、この少女は惜しげもなく分け与えてくれるようで。
足りないものだらけの自分が、
なぜ生きているのか不思議だった。
補い合うために人は寄り添うのだと、
目新しくもない言葉が、――なぜか、
なぜか、心に浮かぶ。
