至近距離の緋色が、そのまっすぐな視線が。まるで心の奥底を、胸の奥にこっそり隠した想いを探し当ててしまいそうで。自分でさえ自覚しない想いを、この緋色だけはまっすぐ探し当ててしまいそうで。
どぐん、耳元で大きく心臓が跳ねた。
記憶が、飛んでいた。
気付いたらソファに横に――というには不自然な姿勢だったけれど、横たわっていて。ぎりぎり触れるか触れないかの距離から身を乗り出した彼が、目を白黒させる彼女をじっと見下ろしていた。
「あ、の……!?」
記憶が飛んでいて頭の中が真っ白で、けれどこのままではなんだかまずいような気がヒシヒシでソフィアは必死で考える。何も思い付かないけれど、黙り込んでしまったらなんだかアウトだとただそれだけで必死に考える。何も思い付いてくれない脳ミソが信じられない、時間の感覚もどこかにいってしまって、果たしてどれだけこの格好を維持しているものか。
下手に動くことができない、どうしよう、息さえもできない。
酸欠の頭はいよいよ働きが鈍くなって、何でだろう、そんなことだけは冷静に思う自分がいた。こんな至近距離ではきっと彼女のぐるぐるなんてきっとばればれで、けれど先ほどから表情一つ変えない彼が、アルベルが。
――ああ、頭がぐちゃぐちゃで何も考えられない。
たしか、――そう、確か。お茶を淹れたのだった。トレイにパーティメンバー全員分のカップを乗せて、確かお茶うけにお菓子も少し。もしかしたらそのお菓子を食べたいからお茶を淹れたのだったかもしれない、思い出せない。
ともかく、それはどうでもいい。
ぱっと思い付いたそれにすがるようにして少しだけ記憶を引き出して、ソフィアの目が必死に周囲を探る。視界の大部分は目の前の人の身体で占められていて、そんな事実に熱かった頬にさらに血が上る。
とにかく、ぎりぎりで見えた。
向こうの小テーブルに、どうやらまだ湯気を上げているカップらしきもの。
人数分のお茶を、その日、そう確かパーティは宿を取っていた。ソフィアにはよく分からないけれどいまだに何か確執があるのか、単にそういう性格なのか、ソフィア自身は後者だと思っているけれどとにかくアルベルだけはひとり自腹で個室で。
最初はアルベル以外の男性陣、次に女性陣、……最後に二つのカップを乗せてこの部屋に入った。
そのあとが、どうしても思い出すことができない。
「……あっ、アルベルさん!? あのあの、その、お茶……冷めちゃいます、よ……」
「別にいい」
必死で口走ったそれは自分でも分かるくらいひっくり返っていて、しかも即座にばっさりやられた。会話の糸口にもならなくてぐっと息を呑みこんで、頭の片隅が、アルベルさんって猫舌とか何かだったっけ? などとどうでもいいことを思っている。
沸騰直前の頭は、そうこうしている間にもさらにどんどんぐらぐらして。どうすれば良いのか分からない、別に泣くつもりなんてどこにもないのに気が付けばなぜか視界が潤んでいる。
――どうしよう。
それだけが頭の中を巡っていて回っていて、けれどどうにも何も考えられない。
お互い、何かを相手に言った記憶はないし何かを聞いた覚えもない。ソフィアの自覚としてはつんつんとがったこの彼になんだかなついている自分がいたし、彼も彼女には、ひたすら分かりにくいものだったけれどどことなくなんとなくやさしかった。それが警戒を解かせるための演技だったとは彼女は思わないし、今だって思っていない。
きっと、真っ白の記憶のどこかで自分が悪かったのだろう。
分からないけれどそんな風に思って、だからこの状況は自分が悪かったのだと思った。居心地が悪いからここから逃げたくて、それ以上でもそれ以下でもなくて、けれどアルベルがどいてくれないと逃げられない。
一言頼んだならきっと彼女の願うとおりに動いてくれそうなのに、そう思うのに、声が、出ない。
何かを言わなくてはと思うのに言うべき言葉が何も見つからなくて、
何かを言ってほしいと思うのに何を言われるものかまるで見当がつかなくて、
居心地が悪いここから今すぐ逃げたいと思うのに、
それなのに身体は動かないし声が出てこない。
頭の中がぐるぐるでぐちゃぐちゃで、まともなことが何も考えられない。
全身緊張でがちがちになりながら、明日ひょっとしてこれが原因で筋肉痛になるのかなあそれってすごく間抜けだなあ、なんてソフィアの頭の片隅が考えている。至近距離だけれどどちらもぎりぎりどこも触れないこの距離が、なんだかものすごく奇跡とかそういったもののようにも思う。
まるで他人ごとのようにそんなことを思い付く脳みそが、ソフィアは先ほどからまるで自分のものではないように、思えて。
「な……何か言ってください!?」
「何を?」
言いがかりのような悲鳴のような声を上げたなら、即座に返ってくる静かな声。笑いの色でもにじんでいるなら、からかうなとかなんとか怒ることもできるのに、どうやら真面目そのものの声。
音が耳に届いて響いてじわりと広がって、なんだかとけていく。
よく分からないけれど、これはまずい、そんなことを思う。必死に思って流されないようにとそれだけ呪文のように頭の中でくり返してくり返してくり返して。
この状況を、居心地の悪さをどうにかしたいと思う。してほしいと思う。
覆いかぶさる、ぎりぎり触れないこの距離をどうにかしてほしいと思う。
ここからどいてほしいと思うし、もしかしたら逆に、逆、に……?
「あ……あるっ、っ、アルベルさん!?」
「何だ」
「ど――」
――どうしてこんなことを?
――どいてください。
どちらなのか、ひょっとしたらまったく別のことなのか、自分の上げようとした声さえも見失って。言葉を見失ってただ口だけがぱくぱく動いてその割に息が吸えなくて胸が頭が苦しくてぼうっとする。
「……あの、」
至近距離の緋色が、そのまっすぐな視線が。まるで心の奥底を、胸の奥にこっそり隠した想いを探し当ててしまいそうで。自分でさえ自覚しない想いを、この緋色だけはまっすぐ探し当ててしまいそうで。
どぐん、耳元で大きく心臓が跳ねた。
「――ソフィア」
ぽつりと、こぼすように確かめるようにささやくように吐き出すように……あるいは、なんでもない風に。彼の口からの、自分の名前に。
ソフィアの頭がいよいよ真っ白になる。
