いつも思う、いつも思っていた。
――彼女は、まるで雪のようだ。
「あら、フェイト。来たなら声かけてくれれば良いのに」
「……ずいぶん熱心に見ていたからさ、邪魔しちゃ悪いと思ったんだ」
細い背中が振り向いて、青い髪がぱあっと広がった。そうして苦笑した彼女に、マリアに。フェイトはいいわけじみた自分の言葉に向けるように、困ったように微笑む。
手をのばせばきっとぎりぎり触れる距離にいる彼女が、なぜだか遠い感じがした。
「面白いかい?」
「そうね、寒いけど」
微妙にちぐはぐな答えにどう返そうか詰まると、マリアがふわりと口元をゆるめた。そうして芝居がかった動きでぱっと腕を広げて、なんだか彼女のその腕の一振りでマジックよろしく街があらわれたように見える。
そんなわけはないのに、分かっているのに。なんだかフェイトにはそう見えた。
「こんな寒いところにも人は生きているのね。これだけの街を作って、生きてそこに暮らしている。それって実はすごいことなんじゃないか、って思うわ」
そんなことをぼんやり思うフェイトにきっと気付いていないマリアが、腕でさしたものに自分も顔を向けて。言葉を紡ぐたびに彼女の口元に白いもやが生まれて、それはすぐに消えていく。
――アーリグリフの街、人が生きていくにはかなり厳しい酷寒の地。
高台に立ってその街を見下ろすマリアは、――まるで、
不用意に触れればたちまち水滴に変わってしまうもの。
もしくは触れた手を指を冷やして、そこにあった熱をどんどん奪っていくもの。
今もこの地にゆるやかに、けれど確実に降り続いているもの。
降り積もれば世界すべてを白に塗りかえて、きれいなものも醜いものもその白の下に隠してしまうもの。
その下にその中に、閉じ込めてしまうもの。
――雪、雪片。
――――冬の王者。
それは、こうして街を見下ろす青い髪の女性によく似ている。
彼女は、雪によく似ている。
「人は、たくましいわね」
口元は微笑んで、まっすぐな視線が街を向いていた。まっすぐな目が映しているのは、今フェイトの目に映るものと同じなのに、そのはずなのに。
――彼女にはまるで別の何かが見えているのかもしれない。
フェイトはふとそんな風に思う。
こうして髪を風に遊ばせて街を見下ろすマリアは、なぜだか存在感が希薄で。そこにいるのに、まるでいないような、見えているけれど実は幻のような。触れたら消えてしまいそうな、目を離したらとけてしまいそうな。
まるで、同じ世界に生きている自分と同じ存在ではないような感じがする。
悪い意味ではなくて、むしろ精霊だとか神だとかと同じような。そんな畏れ多いものに対する意味で、人間を超えた存在。何者も彼女を脅かすことはなく、誰も彼女にかなわない。
――そんな存在に、マリアが見えて。
「――フェイト、私は今ここにいるわ」
そんな風に思ったフェイトの心を読むように、何の脈絡もなく声が聞こえた。はっと気が付けば先ほどの距離をさらに詰めて、マリアの整った顔がすぐ目の前にあった。
至近距離にたじろぐフェイトをまっすぐ見つめて、にらみ付けて。
一歩間違えれば唇が触れるのではと思うような至近距離で、彼女の口が白いもやを紡いでいる。
「私はここにいるわ」
そして躊躇なくのびた腕が、指が。
「ここにいる、キミの目の前に。間違いなく、私はいる」
フェイトの頬に瞬間だけ触れて、それはひどく冷たい。
「勝手に私を幻にしないで。存在しないものを見るような目で見ないで」
触れるのが怖くて、触れた瞬間消えてしまいそうなマリアにためらって、だから先ほどからずっとどこか上の空だったフェイトをすべて見透かすように。
「私は神や天使なんて上等な存在じゃない。生きてここにいる、人間よ」
鮮やかな翠が、それをいろどる青が。肌の白さがその頬の赤さが。寒い中ずっと立っていたために、赤くなってしまった小さな鼻が。
「だから遠いものを見るような目で私を見ないで。私は今ここにいるわ、それなのに遠いものに見えるなら。それはキミの心が離れているせいよ」
言葉のたび呼吸のたび、彼の顎あたりに触れる温かいもやが。
「そんなの、……淋しいわ」
そしてただ、どこまでもみずみずしい果実のような、寒さにだろうかかすかに震える唇が。
「――マリア」
「何」
アーリグリフの街の高台、周囲には誰もいない。マリアとフェイト、二人分の足跡しか見えない。何かの推理小説でもあるまいし、つまり今この周辺には彼ら二人しかいないのだと思う。
「あのさ、」
そう思って、思うことで多分心が怖気づいていて。そんな自分を誤魔化すように、フェイトは口の端を持ち上げてみる。実際思うような表情が浮かんでいるかは自信がなかったけれど、とにかくそうしてみる。
――せめてマリアには、この顔が笑って見えていてほしい。
「マリア、あの、」
「――だから、何?」
言いたいことは先ほどのすべてだったのか、けれど言いたいすべてを吐き出しても離れない至近距離の彼女に。自分は人間だと、幻ではなくここに確かにいるのだと、だから特別扱いをするなと言った彼女に。
まっすぐ、にらむように挑むように彼を見つめる翠を、彼もまっすぐ見つめ返して。
「……抱きしめて、いいかな?」
平気なふりをして、けれど実際勇気を総動員して、やっとの思いで訊ねてみる。
彼の不安どおり、本当にそれで彼女がとけてしまったら哀しいけれど。彼の不安どおり、本当にそれで彼女が消えてしまったら淋しいけれど。
――自分は人間としてここにいると、他でもないマリアの口からたった今聞いたから。
……それを確かめても良いか、お伺いを立ててみる。
寒さに赤かったマリアの頬が、なんだかさらに赤くなった。
寒さで震えていたマリアの身体が、なんだかその震えが少しだけおさまった。
いつも思う、いつも思っていた。
――彼女は、まるで雪のようだ。
雪のように美しくて儚くて、冷たくて凛としていて厳しくて。触れたらとけてしまいそうで、力ずくで奪うことのできない特別な存在だと思っていた。
本当は、今も思っている。心の奥底で、不安とおそれがやはり消えない。
――だから、どうかそれが間違いだと確認させてくれないか?
まっすぐで子供っぽくて馬鹿らしくて大真面目な、彼の言葉に。
彼女の小さな唇が、言葉を紡ぐためにゆっくりと開いていく。
