できることをすればいい。
無理なんて、しなくても。
あ、と思った瞬間には手は針を送り出していた。変なところに押し込んだそれは変なところを突き破って顔を出して、それは布をおさえる自分の左手の真下からで、
「……!!」
声さえとっさに出てこない痛み、ぶわっと浮いた涙に揺れる視界。見れば血の珠がぷっくりふくらんで、見下ろした視界の中白い布地に吸い取られていく。
「……また、だわ……」
他人のように聞こえる自分の声、疲れ切ったそれが示すとおりに白い布にはところどころ赤いものが、酸化してだいぶ黒っぽくなったものまで点々と不規則に散らばっていて。ただでさえ情けなく乱れた縫目、不必要な無様な針あとが見えるのに、そうして散った血のせいでもうぐちゃぐちゃのどろどろになっている。
「……はあ、」
もうそんなもの見るのもいやになっていたけれど、それでももはや意地だけで。
ため息をひとつ、すっかり分解しかけたよれよれの糸をたぐって針を探し出して、必要以上の力を込めてそれをつまみ上げると。意を決してまた一針さして、なんとかそれはうまくいって、しかし次の針はまた失敗した。
痛みと情けなさにうるみきった視界、彼女の指先はすでに絆創膏で隙間なく埋められている。
旅の毎日はつまり戦闘の毎日で、敵の攻撃その他で服がぼろぼろになるのはいつものことだった。加えてまともな道のない道を進むこともよくあるし、そんな道では誰かしらどこかしらに服をひっかけて、どんなに丈夫な服をしつらえてもそんな生活をしていてはあっという間にほころんでいく。あるいは破れて汚れてどろどろになっていく。
生活の一部となれば、各人が自分の服を適当に繕うことは当然だったし、自分の服ならへたに繕って恥をかくのは自分、余分な気負いはない。あるいは繕ったりしないでぼろぼろに擦り切れた服を着ることを選択すれば良いし、各人の決めたことに別の人間が口を出すことでもない。
――そういった細かい作業が得意な上に大好きな、もしくは好きだからこそ得意な、あのやさしそうな少女がパーティに入るまでは、あくまでそうだった。誰もが気付かない小さな服のほころびさえ目ざとく見つける彼女がパーティに入るまでは、そうだったのに。
――ああもう、また破れてるよフェイト。
――え? うわあ、何で気付かなかったんだろうっているかいつやったんだっけ??
――さっきのあのダンジョンで、洞窟で、戦闘の時にモンスターに吹き飛ばされてたから、あれだと思うよ。そういえば怪我しか見てなかったけど。
――ああ、そういえば壁にぶつかった時にひっかけてたかもなあ。
頭の中で再生される会話に、針を操るマリアの顔がじっとりむくれたものになっていく。集中力が切れた自分を自覚して、そんな状態ではやはり予想通り、
「……っ!?」
またぐさっとやった。痛い。
――仕方ないなあ、今度洗濯する時に直しとくから、それで良い?
――いつもごめんなソフィア。ああ、でもお前が入ってくれてずいぶん楽になったよ。前は自分のことは自分でしなきゃだったからなあ。
――わたしはそれくらいしか、できないから。……ありがと、フェイト。
一緒にバカンスに行った時にバンデーンに襲われたという話だった。最初に顔を合わせたときからなにかれとなく心配していた幼馴染と再会して、あの瞬間、彼の顔がどれだけ安堵にゆるんだのか目の当たりにしたマリアは思い知っている。
たぶん、彼にとって少女の存在がどれだけを占めているのか、きっと本人よりも分かっている。
そんなことはどうでもいい、そのはずなのに。なぜか面白くなくて、二人が和やかに話をしているところを見るとなぜか腹が立って、いやな人間だと自覚しながらも必要以上に少女に対してつんけんとした態度をなぜか取ってしまって。
細かいところに気が付く、手先の器用な少女はパーティ全員の、たとえば服も気付けばしょっちゅう繕っている。幼馴染だから彼が特別、というわけではなく、マリア自身の服もそういえば何度も繕ってもらっている。
――自分のことは自分でさせなさい。
なんて偉そうに意見したことだってあるし、
――でもわたしこれくらいしかみなさんのお役に立てませんから。
なんて儚い笑顔も返された。
――それにこういう細かい作業、好きなんです。あの、見栄えがそんなに悪いならこれからがんばりますから!
健気な笑顔があとに続いて、そんなことはない、破いたところがどこだったか分からないほど見事に修繕されているから、
――……勝手にしなさい!
なんて、かわいげのない捨て台詞で逃げてしまって。
今回も、だから気付いたところで放っておけば良かったのに。言葉どおりに少女は、これまた各人が自分でやるべき洗濯をわたしがやりますと言い出して、まあそれだっていつものことだけれど、そのついでに見事に繕ったことだろう。他メンバーの服もちゃんとチェックしてさりげなく修復して、いつもありがとう、なんて感謝の言葉にえへへと照れたことだろう。
分かっている、そうすれば良かった。
それなのに、
――私に貸しなさい、
そんな偉そうな言葉で横から彼の、フェイトの服を引っつかんで持ってきてしまって、
二人の困惑と静止の声を、振り切ってまできたのに。
「……ばか……」
――私は、なんて愚かなのか。
見下ろした布地、元は白くて、旅に疲れた今ではだいぶ汚れて疲れてグレーがかかったフェイトの上着。少女が指摘したのはその服の背面、毛羽立って裂けていて、なんとか繕おうとマリアが格闘した結果、裂けていた過去の状態の方がまだなんぼかマシな惨状を見せている。
縫い目はぐちゃぐちゃで変にひきつっていて変にのびていて、関係ない針のあとが派手に走っていて、さらには血が点々と散っていて。
ごめんなさいと少女に謝ってこれを渡したところで、彼女にだってどうしようも、いや、彼女の腕ならどうにかするのかもしれない。マリアの奮闘の結果の惨状をなかったことにして、見事に仕立て上げるのかもしれない。そんなことが、あの少女にならできるのかもしれない。
お疲れさまでした、あの、わたしがいじってもいいですか? なんて控えめな断りを入れて、魔法のように見事に「なかったこと」にするかもしれない。
あるいは、彼女の腕でもどうにもできないのかもしれない。
どのみち少女はマリアに対して決して勝ち誇った顔は見せたりしないけれど。どのみちフェイトは呆れてため息を吐いて、決してマリアを馬鹿にしたり責めたりはしないけれど。
むしろ面と向かって怒ってくれない分マリアにはこたえることを果たして分かっているものか。
――まあすべて、自分が招いたことなのだけれど。
悔しくて悔しくてうつむいたマリアの手の中、元は白かった布地がくしゃりとしわになる。
――できることをすればいい。
――無理なんて、しなくても。
ときどきは偉そうに自分の口から、あるいはフェイトが少女に向けての言葉が風に舞ってとけていく。聞こえもしない幻の声が、なぜかマリアの耳に届く。
――それでも私は、私の思うようにするのよ。
幻の声にさえ、そうして意地を張って。
マリアの手が再び白い布地を広げて、針を手に取った。
どうしてこんなことになったのか、ぐちゃぐちゃの自分の心の根本はきっとシンプルなものだけど。
それにはどうか、気付かないふりする。
