鉱山の町カルサア。
クリエイションに集中していたネルは、気が付けばずいぶんと工房内の人数が少ないことに首をかしげた。思わず人数などを確認して、そしてこめかみに手を当てる。
「マリア、……今いいかい?」
「何?」
執筆が一息ついたのだろう。手首をぶらぶらさせて、うーんと伸びをしたマリアが身体ごと向き直った。ネルは呆れを隠そうともせずに大袈裟に肩をすくめてみせる。
「……パーティの男たちがさ、全員とんずらこいたみたいなんだ。どうせ今日はもう終わりにするつもりだったけど、何も言わずにってのが気に食わなくてね。あたしはあいつらを探しに行くけど、あんたはどうする?」
「――そうね……もう少しやっていくわ。キリがついたら酒場経由で宿に戻るから」
「分かった」
――まったく、世話の焼ける男どもだ。
ぼやきながら工房を後にするネルを、くすくすとマリアの笑い声が見送った。
「あ、ネルさん。どうしたんです?」
「フェイト……あんたね」
工房を出て角を曲がったところで。捜していた人物そのいちにきょとんと声をかけられて、ネルは額に手を当てた。
「……クリエイションサボって一体なにやってたのかは知らないけど、どうしたはないだろう……あたしは怒ってるんだよ?」
「ああ、一息ついたところで材料が心もとなくなっちゃって。買い出しに行くことにしたけどみんなやったら気合入れて集中してるし。……一応メモを残しておいたんですが」
普段は抜け目がないくせに、どこかズレているそんなフェイトに頭が痛くなってくる。
作業中に小さな事柄をメモしている人間はかなり多い。伝言メモなり書き置きなりをしておいても、それらと一緒くたに捨てられてしまえば、それでは意味がないではないか。
「……あの工房に紙切れ一枚残しておいたところで、ゴミ扱いされるだけだろう?」
「あ……そうですね。そりゃそうだ……」
あはは、曖昧に笑うフェイトは両手で紙袋を抱えている。ひょいと覗き込めば、確かに先ほどの言葉通り料理素材が詰まっていた。ついでにクリエイションとは関係ないものもいくつか入っているようだが、まあこの際にと消費アイテムをまとめ買いでもしたのだろう。
黙っていなくなったことに少しだけ居心地悪そうにしているフェイトを見やって、ネルはため息をつく。
別に遊んでいたわけでもなさそうで、これでは怒る方がおとなげない。
「……もういいよ……で? あとの二人はどこだい??」
「ふたり?」
何のことですかと首をかしげられて、どうやらフェイトは知らないのだと思い当たった。
「クリフとアルベルもいなくなってたんだよ。……そりゃ子供じゃないんだから、四六時中目の届くところにいろとは言わないけど。今日なんかは自由行動ってわけでもないんだから、行き先くらいは言ってほしいもんだね」
「……いや、僕に言われても……次回からは気を付けますけど」
もごもごと言って息を吐くフェイトに、ああ、とつぶやいて、
「悪かったね、引き止めちゃってさ。町の中を適当に捜してから宿に戻るから。マリアが酒場の方に行ってくれるらしいし、まあ多分そこにいるんだろうけどね」
「それはかまいませんけど。……手伝いましょうか?」
「……別に急ぎの用事があるわけじゃないんだ、単に気分が悪いから注意するだけ。だから、別にいいよ」
その「いい」を、取り違えたらしいフェイトがにっこりといつもの笑みを浮かべる。
「ファクトリーに荷物置いたらまたここに来ますから。ちょっと待っててください」
「あ、ちょっとフェイト!」
言うなり駆け出した青年の背に呼びかけても、その後ろ姿はみるみる遠ざかる。
はあ、まったく……。
ぼやきながら近くの壁にもたれれば、ふと夕日が視界に入った。
日中空に貼り付いていた時よりもずいぶん大きく見える太陽――アペリスの化身が、音もなく、しかし確実に沈んでいく。ふっと見れば東の空にはエレノアの月とパルミラの月が顔を覗かせていて、まぶしくてよく見えないけれど、あのアペリスのそばにきっとイリスがいるのだろう。
「ネルさん、お待たせしました」
そこにフェイトが帰ってきて。ネルの視線をたどると、まぶしそうに目を細めて笑う。
「……明日も晴れそうですね」
「そうだね」
うなずいたところで、急にフェイトに手を掴まれた。距離を詰められたことにすら気付かなくて、びっくりして顔を上げればいたずらそうに碧が笑っている。
「……ネルさん、こっち」
「ちょっとフェイト、いきなりなんだい!?」
優しい、しかし有無を言わせない強い力。そういえば先ほどの荷物も、量が多いせいでバランスを取ることには苦労していたが、重そうな顔はしていなかった。これがネルなら、立ち話をしていたあの間中あの量の荷物を抱えていれば、きっと今ごろ腕が痺れてだるくなっているはずだ。
どちらかというと女顔で、クリフなどのごっついのとよく一緒にいるからどうにも華奢な印象を抱いていたのに。――男、なんだなあと不意に思う。
勝った負けたではないけれど、女のネルがどんなに努力しても届かないものをフェイトは持っている。もちろん、彼が持っていないもので、ネルが持っているものがあることは、分かっているけれど。……そんなことに、不意に気付かされる。
「……って、こらフェイトあんた一体どこに……っ」
気が付けばウォルターの屋敷すらこえて町の北に向かっていた。このままでは町を出てしまう。どこにいくのかとネルがあわてても、フェイトはくすくすといたずらっぽい笑みを浮かべるだけで、握った手を離さない。
「ふぇい……!」
「――到着」
「?」
いよいよ声を荒げようとしたところで出鼻をくじかれた。
きょとんとネルが瞬くと、夕日に照らされるフェイトが光源の方に指を向ける。まっすぐに示されたそれを追って、そしてネルは息を呑んだ。
――世界が、紅に染まっていた。
二人の体重に軋み吹き抜ける風に揺れる、谷に渡された吊り橋の上。町と鉱山を結ぶその橋の上、ちょうど真ん中から見た夕日とそれに染め上げられた世界は、圧倒的な何かを持っている。
左の崖はそのまま山の稜線につながり、その山は今は黒い影でしかない。右の崖はゆったりとひらけて、影とは対照的に紅の色。その紅は、さまざまな色をいくつも合わせてそれを濾過したような、不思議な深みと透明感を持っていて。燃えるようなオレンジの珠は片手に握れるほど。その脇に寄り沿うように輝く、あるいは零れた涙のような真珠色の月。
昼と夜が混ざり合った、一枚の絵のような完璧な風景。言葉では言い表せない、深い感情を呼ぶ色彩。
「……すごい……」
ネルはただ、ぼんやりとつぶやく自分の声を聞く。
――夕日など、今まで幾度となく見ているのに。
あるいはそれは自分の流した、流させた血のようにも見えて。哀しみに囚われる焦燥感に駆られて、一人怯えたことすらあるのに。村を燃やし街を燃やし、すべてを奪い尽くす炎のようにも見えて。憎しみに囚われる焦燥感に駆られて、一人怯えたことすらあるのに。
魂すら持っていかれそうな、この圧倒的な神々しさは、今まで感じたことなどなかった。
揺れるこの感情を、すぐ隣にいるこれを見せてくれた青年に伝えたいのに、言葉が浮かばない何を言えばいいのか分からない。もどかしい、もどかしい、もどかしい。
やがて紅は刻々と色を変え、空のグラデーションはそのうち黄昏の一色にかわった。不意に寒さを感じてそっと自分の腕を抱くネルに、顔を向けたフェイトがふわりと笑う。
「この前、偶然見つけたんです。この場所と、ここで見る夕日。息をすることさえ忘れる、今日みたいなあそこまできれいな夕日ははじめてですけど」
ふと首を戻して。今はもう完全に沈んだ太陽を、地面の下に見るように、
「……ネルさんみたいだなって思って、一度一緒に見てみたくて」
「あたし……?」
ゆっくりとまたネルに向き直ったフェイトの、その手がすっと伸びて。ネルの髪に触れるか触れないかで止まる。
「ネルさんの、髪の色みたいだなって思ったんです」
「ああ……」
ゆっくりとうなずくネルに、にこりと笑う。
「僕のいたところでは、空気が汚れていてきれいな夕日なんて見たことがなくて。ネルさんは、ひょっとして見飽きているかもしれないけど、どうしても一緒に見たかったんです」
そっと戻っていくてのひら。男性にしては、剣を握る者にしては細くてきれいな指。
ネルは首元の布に、いつものように顔を埋めた。
「いや、ありがとう。……はじめてだよ、あそこまできれいな夕日なんて」
「シランドの、湖に沈む夕日もいいなあと思ったんですけどね」
その言葉にふっと故郷を思い出して、目を伏せて紫が笑う。
「……そうだね。水面に反射した光がきらきらして、それだけじゃなくて街中の家が、白い壁がきれいなオレンジに染まるんだ。街を作った人たちは、まるで最初からそう計算していたんじゃないか、って思うくらい。――シランドの夕日も、きれいだよ」
ネルの目には時おり、そのオレンジが街を舐め尽くす炎に見えることがあるけれど。それは任務のために他者の命すら奪う自分のせいだと、自分が弱いせいだと、分かっている。
――どうしようもないことなのだと。
ネルの心に気付いているのかいないのか、フェイトが静かに目を細めた。風が吹いてフェイトの髪を揺らしてネルの髪をさらって、視界を赤いものがよぎった。
――ネルの心に、遠い昔の記憶がふっとよぎった。
そうか、と彼女は目を瞬く。心の奥底に記憶の奥底に大切にしまって、大切にしすぎてすっかり忘れていた宝物を見付けた。ゆっくりと大切に、引っ張り出す。
「……母さまが、父さまとあたしの髪を、夕日に染まった街の色にたとえたことがあったよ。今まで、すっかり忘れていたけど」
「へえ……」
「この国を、この街を護るあたしたちに、アペリスさまが特別に与えてくださったんだって。今じゃ畏れ多くて苦笑するしかないけど、あの時は嬉しかったな」
くすぐったくて、同時に誇らしくて。そんな気持ちで見上げた父の顔には、複雑な笑みが浮かんでいたことも思い出す。――その笑みの意味を今になって知ったように思う。
「……ありがとう、フェイト。忘れていた大事なものを思い出した」
「そうですか?」
きょとんとした顔が、瞬時に喜色に染まった。……素直な感情表現をできるフェイトが、ネルには少しうらやましかった。
「さて……と。じゃあ、酒場に顔出してから帰りましょうか」
「――誰かさんは、あの二人を捜す手伝いをするんじゃなかったのかい?」
今度はゆっくり歩いて橋を戻りながら、からかうようにネルが言うとフェイトは苦笑した。
「だって……お腹すいたんですよ」
言葉にかぶるように、フェイトの胃が不満の声を上げる。思わずネルが吹き出せば、情けない顔で腹に手を当てるフェイトが、ふと思い付いたように、
「……さっきの話ですけど」
「え?」
「僕、今日の夕日を見て思ったんですけど」
「……なんだか唐突だねえ」
目を瞬くネルの耳元に、内緒話をするように口を寄せて、
「――すごくきれいな夕日でしたけど。ネルさんの髪の方が色が深くて鮮やかで、もっとずっと綺麗です」
「……は……?」
一瞬呆けて脚を止めたネルに、橋を渡り終わったフェイトが駆け出しながら振り向いて、大きく手を振った。
「先行ってますー! 逃げるようならあいつら殴ってでも止めておきますから!!」
「ち、ちょっとフェイト、あんた今……どういう意味だい!?」
逃げているのはあんただろう!?
大声を上げてもフェイトは脚を止めなかった。その耳が赤く染まって見えたのは、はたしてネルの気のせいだろうか。
「…………」
悪い気分ではないのだけれど。不意打ちでとんでもないことを言い出す青い髪の青年は、つくづく心臓に悪い。
ネルは熱い頬にそっと手を当てて、小さく息を吐いた。
――きっと今の自分の顔は、夕日にも己の髪にも負けないくらい、赤く染まっている。
