遠く、遠くに。
くっきりと二つの月が浮かぶ、そんな夜に。
「……ネルさん? まだ、起きてたんですか」
「ちょっと眠れなくてね」
黒い深い夜の闇に、ただ静かに浮かぶ二つの月を見上げながら。ネルは口元だけで微笑んだ。声で気配で、誰が話しかけてきたかは分かっているから。月から、空から目を離さない。
「? ネルさ、」
「……フェイト」
何かを言いかけていたのを遮って。ネルの声にフェイトはきょとんと瞬く、見なくても分かる。
――短くも長くもない付き合いの中で、分かるようになった。
「あんたが来たのは、どの星からだい?」
静かな声、無茶な問い。唐突な彼女の言葉に背後の気配が少しだけ揺らいで、
「……多分、あんまり自信ないですけど。
今の時間なら右の月の、ちょうど向こうがわにあると思います。ずっとずっと遠くてそんなに明るい星でもないから、月があってもなくても見えるものじゃないと思いますけど」
揺らいだくせに、しかし声ははっきりと言い切った。
アーリグリフとの戦争に、妄想さえしていなかった形で横槍が入った。そのタイミングを狙っていたわけではないだろうけれど、金髪の筋肉男の知り合いがいきなり彼女の前に現れた。戦争に横槍を入れたやつらがどうやらシーハーツの至宝、セフィラを狙っていると分かって。それを阻止したと思ったらこの機にとアーリグリフと和解することになって。
今、一行は和平会談に直接参加する女王の護衛として、モーゼルの古代遺跡に向かっている。
いろいろなことがあって、ありすぎて。ネルの常識には納まりきらないことばかりが頻発していて。だから、彼女の脳は悲鳴を上げて休みたがっているのに。
彼女の身体は、今までの無茶の分の休養を求めているのに。
眠れない、神経が高ぶっていて眠ることができない。
見聞きしたことがあふれてまるで整理できなくて、混乱していて眠ることができない。
多分その混乱のせいだろう、答えられないに決まっている問いをぶつけられた青年は、けれどあっさり答えた。本当か嘘なのか、そもそもネルは答えを知らないから、最初からいんちきの質問だったのに。
なんだか、こうもあっさり答えられると、悔しい。
「フェイト、あんた、」
「……僕の故郷ですから。誰にも気付かれないように、こっそり恋しがってましたから。
だから、ですよ」
にこりと向けられた微笑が、やさしいけれどどこか淋しい。言われた言葉が消化できなくて目を白黒させるネルに、フェイトはさらに笑う。
「最初は、そうだったんですよ。シーハーツもアーリグリフも僕には関係なくて、関わっちゃいけない法律があって、だからネルさんがすごく困りました」
「技術協力……の件かい?」
「はい」
淡々と告げられたフェイトの心、どこかに何か引っかかりを覚えて、ネルは一つ目を瞬く。
「最初は、迷惑だったんです。アーリグリフに捕まっているのも癪だったし、かといってシーハーツに協力するつもりもなかった。そんなことしちゃいけないって思ってた。
今だって思っていますけど、でも、」
「でも?」
「最初は故郷に帰りたくて、日常に帰りたくて、ただそれだけで。
……でも今は、」
「フェイト?」
青年の言葉がすべて過去形だということに気が付いて、先ほどのひっかかりの正体を見つけて、
何かを言いかけて、すぐに言いよどんで、何度もそれをくり返す青年にネルは眉を寄せる。
フェイトが何を言いかけているのか、分かるときもたしかにあるけれど、分からないことの方がいまだに多い。ネルにはまるで理解できない秘密を山ほど抱えている青年は、そういった記憶の下地の関係上、ネルには読み切ることができない。
――ちゃんと言葉にしてくれないと、分からない。分かることもあるけれど、分かることがあるその分、分からない時にそのへだたりがなんだか哀しい。
哀しいネルに気付いているのかいないのか、しばらくうんうんうなっていた青年は、
「――も、もう遅いですから、寝入るのが無理でもとにかく身体を休ませないと!」
まるで関係ないことをやけっぱちに叫んで、彼女の肩を押して部屋に促そうと、
促そうとして、――けれど脚が止まった。
「フェイト、」
「ネルさん、肩、――身体冷たいです。いったいどれだけここにいたんですか、夜風に吹かれていたんですか!?」
「え? いや、……そんなに長くはないよ」
「じゃあ、なんでこんなに冷たいんですか! ああ、頬もほら、こんなに、」
彼女の頬に触れた大きな手が、燃えるように熱い。
言いかけたフェイトの声が途切れて、いぶかしそうに顔を上げたネルの目に、青年の顔が思ったよりもずっと近かった。
「ふぇい……、」
「最初は帰りたかったけどっ! 今は、そうでもないんですネルさんがいるからエリクールにはネルさんがいるから!! 帰ったら二度とネルさんに会えないって思うとそっちの方が最近は嫌で仕方がなくてっ!」
……え?
かすかに上ずった早口が、ネルにはよく聞き取れなかった。ゆっくり瞬く彼女を、次の瞬間暖かいものが包み込む。どくどくどくどくどく、すごい勢いで響く音に、二拍ほど置いてからネルはその正体が分かって、
ちらりと見上げた青年の顔は、闇夜にきっと赤くて。
不意に、分かった。
ネルには不意に、なぜ眠れなかったのか分かった。
元から胡散臭かったフェイトの出自が分かって、それは予想もしなかった遠い遠い世界で、彼はそこに帰りたがっていて。故郷に帰りたがっている彼を、ほとんど無償でいろいろなことに手を貸してくれた彼を、望むところに返してやりたい反面別の感情もあって。先日増えた、空から降りてきた青髪の彼女。フェイトと金髪筋肉男の間のよく分からないやり取りは「男の連帯」だと思っていたのに、思ってあきらめていたのに、青髪の彼女はその中に入っていって普通に話をしていて。
――それが淋しかったから。
――それが悔しかったから。
ちょっとしたことに彼と自分の世界のへだたりを感じて、フェイトの生きる世界に自分が存在しないことを思い知らされて、それが苦かったから。
……そんな負の感情が、自覚しないままに渦巻いて、だから眠れなかったのだと思う。予想もしなかったあれこれに混乱する気持ちもあっただろうけれど、たぶんそれ以上に、
それ以上にフェイトのせいで抱いてしまった負の感情が大きくて、
「これが、すんだら。……あんたは、帰るんだろう? やっと、帰れるんだろう??」
「――ネルさん、」
気が早いけれど、そのときは笑って見送ってやるよと約束しようとして。痛いと悲鳴を上げる心を押さえ込んで、そう告げようとして。
ネルは息を呑んだ。
自分を抱きしめる青年が「男」に見えて、その真剣でまっすぐで危険で真面目な顔が、なぜかとても「男」に見えて、
「……ひどいじゃないですか。ずっと、この気持ち抑えようと思ってたのに、全部持って帰ろうと思ってたのに、」
「え、あ……ふぇ、いと……?」
抱きしめられて、包み込まれて。思うように見動きが取れないネルに、青年がずいと迫る。
顔が赤くて目が据わっていて、困ったような怒ったようないとおしいものを見るような切ないような嬉しいような、
いろいろな光を浮かべた碧がネルにずずいっと迫る。
その口が告げた彼の心に。
――跳ねていたネルの心臓が、さらに瞬間、膨れ上がった。
無自覚に膨らんでいた心に直結して、歓喜にはじけた。
……たとえ終わりが見えていても、それが覆しようのないことでも、
……でも。
遠く、遠くに。
くっきりと二つの月が浮かぶ、そんな夜に。
二つの人影はひとつになったまま、しばらく動かなかった。
