誰が悪かったわけでもないし、誰にもどうにもできなかったと思う。各人の注意不足が祟ったと言ったところで、実質被害がなかった以上以降気をつければこと足りたはずだ。
理屈では、分かっている。
頭では分かっている、のに。
「……なんだい、疲れたのかい?」
「疲れていません、大丈夫です」
「じゃあ、さっきのあのひとに嘘を吐いたことが引っかかっているとか」
「グレゴリーさんのことですか? あの場合は、嘘も仕方ないでしょう。嘘を吐く方が話が早いこともある、くらい僕だって知ってます」
「知っているのと納得するのとは違うだろう。なんだかさっきからあんた、ひどくいらいらしているみたいだよ??」
「…………」
先ほどからただ黙々と歩く、雰囲気のよろしくない彼に。気が付いた本人が噛み付いてこない程度に、彼女は軽く息を吐いた。
話しかければ、多少トゲはあったとしても「普通」の範囲内で答えが返ってくる。別に話をしていなければ野生の獣が襲ってくるわけでもないし、逆に話し声で獣たちを刺激する可能性もある。
だから、話している必要性は必ずしもあるわけではないものの。
――今まで、常に何かしら話しかけてきたのは青年の方だったから。きっと緊張や疲労の裏返しとは思っても、いつの間にか、それにすっかり慣れてしまっていたから。
「……ちょっと、休憩にしようか」
「僕は、……!」
「あんたが平気でも、あたしが疲れたんだよ。悪いね、ワガママに付きあってくれ。
……ちょっと!」
アリアスはすぐそこだけれど、気は焦るばかりだけれど。こういうときこそ一息ついた方が最終的に能率が良いことは、経験上知っていたから。
彼女は一番後ろをなにやら奇妙に笑いながら歩く、金髪大男に声をかける。
「……しっかし、何が原因なのかねえ?」
あたたかい飲みものがほしい、などとワガママを言ってみたら、意外と素直に同意してもらえたから。半分は嘘にしても、あたたかい飲みもので息を吐きたかったのも事実で、道具袋をあさる彼女は一人ごちる。
アーリグリフの地下牢から助け出して街中を抜けて、トラオム山道の途中で馬車から降りて。カルサアの町に入る手前でいきなりぶち倒れてはくれたものの、その前後であまり大きく言動が違ったことはなかったように思う。
そして先ほど抜けたカルサア山洞でも、やはり確かに普通だったはずだ。
トロッコモンスターの選択が悪かったのか、操縦が悪いのか。むやみに暴走しかけたり壁に激突しかけたりするたびに、むしろおもしろそうに笑っていたのは彼だけだった。乗りもの酔いうんぬんよりも舌をかみそうで、必死にトロッコにしがみついていた彼女の恨みがましい視線をものともせずに。手綱を握った青年は何が面白いのか心底楽しそうに、何週も何週もぐるぐるしていた。
出口付近でアーリグリフの――シーハーツ高級軍人の彼女にとっては敵国の兵に出会ったりして肝を冷やしたものの、当座は世間話だけで切り抜けて、
――思い返してみても、そこまでは特に何もなかったと思う。
「……何かあったかねえ?」
ふと気が付けば機嫌が百八十度変換していた、その原因は。そして、何をどうすれば元通りとはいかないまでも、この居心地の悪い雰囲気をまき散らすのを止めてくれるのか。
彼女はこくりと小首を傾げてみて、鮮やかな赤毛がそれにつられてさらりと流れる。
――別に「ターゲット」の機嫌が良かろうと悪かろうと、関係ないじゃないか。
頭のすみがそんなことをささやくけれど。
――アリアスに着いたらクレアと合流して、なんとかあの二人をシランドまで運んで。どんな手を使ってもいい、施術兵器の完成の手伝いをする約束をこぎつけて。
――それがあたしの任務で、それには「ターゲット」の機嫌なんか関係ない。
――こんな無駄な休憩なんて今すぐやめて、とっとと出発した方がよっぽど建設的ではないか。
――……大体、知り合ってまだ数日だよ? なんでそんなに入れ込んでいるのさ。
そんな、味気ないドライなことをひたすらささやくけれど。
「せっかくパーティ組んだなら、」
――一度でも「仲間」になったなら、できる限り仲良くよろしくやりたいものじゃないかい?
一人ごちる、自分の言葉にそうだねとうなずく。
――無駄にできる時間なんかないけれど、
――この時間は、きっと絶対に「無駄」なんかじゃないよ。
そう、心底思う。
「……うん、そうだよね」
一人納得して、うなずいて。――それは良いとして、目指す荷物が出てこない。
「ああ、もう」
手に入れる片っ端から突っ込む男二人のせいで、道具袋の中はごっちゃになっていた。必要なものも必要ないものも、よく使うものも滅多に使わないものも。すべてがぐちゃぐちゃになっていて、目指すもの――彼女の私物、茶葉の入った缶がまぎれてしまってまるで出てこない。
「一度荷物整理しないと二度と出てこないかも」
「……その可能性もありますね」
ぼやいて、すぐに返事があって。びっくりして彼女が視線を上げた先、青年がなにやら不思議な笑みを浮かべていた。
この至近距離にまるで気付かなかったことに、隠密の彼女はけっこうなショックを受けて言葉を失う。
「……どうし、」
「お湯が沸いたんですが、そうやって声かけても返事がないし。だから、直接呼びに来ました」
しばらく口をぱくぱくさせて、やっとのことで吐き出した言葉に。道具袋の前に片膝を就く彼女にあわせるように、しゃがみこんだ青年がぼそりと答えた。
答えて、そして、
――なにやらうつむいて考え込んでいたあげく、しゃがみこんだまま大きく息を吐く。
深く深く、全身の空気が抜けるくらい大きく息を吐いたところで、
「……すみませんでした、ネルさん」
そんな風に謝ってくる。
「…………何が、だい……?」
わけが分からなくて、ショックを引きずってかすれた声を上げる彼女に。
青年は、フェイトは。小さく口元を歪ませる。
誰が悪かったわけでもないし、誰にもどうにもできなかったと思う。各人の注意不足が祟ったと言ったところで、実質被害がなかった以上以降気をつければこと足りたはずだ。
道案内のネルが、その時列の先頭にいた。背後に注意を配るために金髪大男は最後尾にいて、そうなると必然、フェイトが真ん中にいた。
カルサア山洞を抜けてベクレル山道に出て。曲がりくねった細い岩山を、その間を縫う道を出て。
少し開けた場所に出たと思った瞬間。
「――あのとき、ネルさんが突風にあおられて、さらわれそうになって。なのに、一番近くにいたのに何もできなくて、すみませんでした」
生真面目な青年が深々頭を下げて、下げられた彼女は驚いて、ただ二、三度瞬いた。言われればそんなことも確かにあったかもしれない。けれど、彼女の記憶にはまるで残っていなくて、だから驚いた。
「……だって、あれは。あんたは、あんたたちはここらへんに来るのははじめてだって言ってたし。仕方がないじゃないか。唯一地理を知っていたあたしが油断していただけで、あんたに落ち度はないだろう?」
「そう、……そう、なんですけど」
「結局は何事もなかったし。バランス崩して岩山にぶつかったとか、最悪崖から落ちたとか。そんなことはなかったわけだし。
――だから、あんたが気にする必要なんて、」
「でも!」
――理屈では、分かっている。
――頭では分かっている、のに。
苛立った青年が、それまでうつむき加減でぼそぼそやっていた彼がばっと顔を上げた。ひどく思い詰めた顔で、でも、と続けようとしたかれに、そのいきおいに一瞬息を呑んだネルは、けれどふっと息を吐くとやわらかく笑ってみせる。
――彼が苛立っていた理由が分かった。
――ひどく青臭く視野が狭い、けれどその分まっすぐで好感の持てる理由。
「――ありがとう」
たった数日前にあったばかりのネルに、そんな、しかも兵器製作の要請などという無茶を迫る彼女に。そんな彼女のために、ネルがピンチに陥りかけた、それが止められなかったからと。
ただ、自分を責める青年がネルにはとてもまぶしい。
「ありがとう、……嬉しいよ。あたしを女扱いしてくれて、嬉しい。こんな職に就いているせいで、しかもまわりは女ばかりだからね。こんなの、ずいぶん久しぶり――いや、ひょっとしたらはじめてかもしれない。
だから、ありがとうフェイト」
――たかが風にあおられただけで。
――そんなぐらついた彼女を支えられなかった、ただそれだけで。
生真面目な彼が真面目に自分に腹を立てた、それが嬉しい。
笑いかけるネルに、しばらくぼうっとなっていた彼はやがて我に返ると同時、わざとらしくそっぽを向いて。……でも、結局は何もできなかったし、などとぼそぼそつぶやいた。うつむいた顔、青い髪の間から赤く染まった頬が見えて。
純な反応が、くすぐったくてまぶしくて。
ネルはまた、くすくすとやわらかく笑う。
――そうか、あんたはあたしを「女」として見てくれるんだね。
たったそれだけが、嬉しくて。嬉しい自分が哀しくて。
「お茶、見当たらないからさ。仕方がないけどもう出発しようか。
シランドに、王都に行けばあたしの家があるから。家にまだたくさん、お茶、あるから。お茶はその時に」
わざと明るい声とくすくす笑いを残して、ネルは腰を上げる。
――アリアスに着いたなら、クレアに二人を引き渡したなら。そのままネルはカルサアに舞い戻るつもりだったけれど。多分そこで、部下たちの生命を購うためにきっと死ぬだろうけれど。
そう思いながら、そうするつもりで。
叶わない約束を純な青年に向けて、ネルは笑う。
――嬉しかった。
――自分を女扱いしてくれて、嬉しかった。
「さあ、行こうかフェイト」
「……あ、は、はい……っ」
華やかな、やわらかな笑みに見とれていたらしいフェイトが、向けられた声と差し出された手に我に返ったように。赤い顔のまま、はっとして、うなずいて、立ち上がる。
びょう、
先ほどネルをさらいかけた風がその時また吹いて。今度こそ彼女の肩をつかまえた青年がほっと大きく息を吐いたことに。
ネルは華やかに、笑う。
