――ああ……ダメだ、と思った。
「……ネルさん? こんなところで寝てたら風邪引きますよ??」
やわらかな、ものやわらかな印象の声が降ってきて。驚きで身体が跳ねて、そして自分が寝ていることを発見したネルは。
あわてて顔を身体を起こした。
シランドの――王城ではない彼女の家の、彼女の部屋。性格が出るのか、多少私物が多いけれど王城とそう印象の変わらない、必要最小限のものしか置かれていない部屋。
その、古い机に額をあずけて寝ていてしまっていたらしいネルは。
困ったような、それとも先ほどの彼女の動きに驚いたような。そんな顔をしたフェイトと目があって、ぱちくりと瞬いた。
「え……あれ? フェイト、あんた、」
「――ネルさんじゃないですか。今日はここにいるから、何かあったら呼びに来てくれって言ってたの」
「そうだったっけ……、あれ?? まあ良いけどね。
何があったんだい?」
言いながら、寝ぼけていた頭がゆっくりクリアになっていく。
――フェイトの言葉どおりだ。
ふと、何気なくふと。実家、自室に置いてあるものを思い出して、今すぐにと焦ったわけではないけれどどうせ時間もあるからと思って。工房でクリエイションするとか王城の図書室で調べたいことがあるとかその他いろいろ騒ぐメンバーに、一応どこにいるかを伝えて、そして、
部屋に戻っていつもの場所にしまったそれを取り出した。
そこまでは覚えている、それに何かを描き加えたことも。けれどやがて急激に襲ってきた睡魔に逆らいきれなくて、それでどうやら眠ってしまったのだろう。
そうしてネルが寝ている中、メンバーが顔を出したら案内するようにと執事に言っておいたから、それでフェイトがここにやってきた、と。
多分そんなところだと思う。
――わざわざ呼びに来るなんて、何があったんだい? 集合は明日のはずだから、まさか寝過ごしたわけじゃないよね??
フェイトに焦りの色が見えないから、のんびりと。訊ねるネルにフェイトが笑う。
「大したことじゃないんですけどね」
そしてひょい、肩をすくめた彼の目が、ふと机の上に広げられているものに移った。
移ったけれど自分を観察する目に気付いたのか、すぐにそっぽを向く。一応礼儀を守ろうとしているらしい、けれど好奇心いっぱいのその目に。苦笑したネルは、それ――広げていたスケッチブックをフェイトに手渡してやる。
「……ああ、これかい? 面白くもないけどさ、見たいなら見ていいよ」
「ありがとうございます」
好奇心を隠そうともしないで、喜々として受け取って。椅子をすすめたけれど断って、手近な壁に背を預けてのんびりページを繰っていく青年。
見られているものを思うと恥ずかしいけれど、言葉もなくただ空間を共有するような、それができるような。この、のんびりした空気はネルにとって心地良い。こんな時間の過ごし方は、まさか自分に可能だと思っていなかったから。それが今、この手にあってそれが嬉しい。
……けれど、
けれど見られているものを思って、やはり気恥ずかしくて居心地悪くて、ネルは息を吐く。
「――わけが、分からないだろう? 自分で描いておいてそう思うから、本当は誰に見せるのも恥ずかしいんだけどね」
「そんなこともないですよ」
椅子に座ったままの彼女に、ざっと全部見てしまったらしい、そもそも数えるほどしかないページを全部見たらしいフェイトがゆっくり歩いてくる。スケッチブックを受け取ろうと伸ばしたネルの手をやんわりよけて、最初のページを開いて、
そこにあったのは――赤と白と黒と、そんな色が、ただ混ざり合うこともなく、けれど何も描き出すこともなく。ただ色が無作為に塗りたくられたような。
「何となく――ですけど。これは、哀しい感じがします。混乱、かな。認めたくないことがあって、頭がぐちゃぐちゃになって、そんな気持ちをすべてぶつけたみたいな感じがする。
何となく、ですけど。全然間違っていたらすみません」
手が、次のページをめくって、
「この絵は――、」
ネルはぽかんとした顔で、淡々と並べるフェイトの顔を見上げた。どこまでも真面目な顔で、けれどいつものなんとなくやわらかい目で。ぽかんと間抜け面をさらすネルに気付いているのかいないのか、スケッチブックだけを見つめている。
そんなネルを置き去りにしてフェイトの声が続いて、
――そのすべてが、すべて。「絵」に込めたネルの心を、大体のところすべて読み取っていて。
何かあると書く日記のように、ごくたまにしかつけない書付のように。その時抱いた心をぶつけていくだけの、明確なものを描かないネルの「絵」を、
フェイトがすべて紐解いていく。
――あるいは、ネルさえ、今のネルも過去のネルも、気付かなかったその「絵」に込めた心を、
フェイトは。
そして彼の手が最後のページに、先ほど描いたばかりの一番新しいページに差しかかって。苦しいような嬉しいような、普段見せない表情を浮かべたネルが。
フェイトの骨ばった手に触れて。
「……なんで、分かるんだい……?」
呆然とうめく。スケッチブックを手渡してきた、ページを繰りはじめた当初とは違う、もっと深くて複雑な、困惑と気恥ずかしさと照れと。そんなものがいっぱいの顔が声が、けれどやはりいつもどおり魅力的な彼女がつぶやく。
動きを止めたフェイトにつぶやく。
「なんで……」
……分かりますよ。どれだけ、僕がネルさんのことを見ていると思うんですか。
……他の誰かの作品だったら、分からないかもしれないけど。絵なんて、芸術作品なんて今までまるで身近になくて、論評できるだけの知識も気概も、何もないけれど。
……ネルさんのことだったら、分かります。
……ネルさんのことだから、分かろうと思うことができるんです。
思うすべてを言葉にしないで、フェイトはただ口の端を持ち上げた。
「――そうですね、この絵、分かる人は少ないかもしれませんけど、」
――むしろ、自分以外の誰にも分かってほしくはないけれど、それは単なる独占欲だけど。
「でも、分かる人にはこれは良い絵ですよ」
――ページを繰るたびに、ネルの心が押し寄せてくる。言葉をいくら尽くしても共有することのできない心を感覚を、けれどこの絵を見れば、この絵が理解できたなら。
ほんの少しでも、無理だと思ってきた感覚の共有が――できるような気がする。
「ネルさんは、すごいです」
だからフェイトは微笑みながら、ただゆっくりと、
「心を描くことができるなんて、すごいです」
ゆっくりと、――ただ、ゆっくりと。
ぼんっとネルの顔に血が上った。
誉め言葉を言った直後、そっぽを向いたフェイトはネルのその顔を見なかった。
そんなフェイトの顔も、気恥ずかしいことを言った自覚があったのかどうしようもなく真っ赤で。
そっぽを向かれているから、ネルにはその顔が見えなくて。
……ただ。
――ああ……ダメだ、と思った。
もう……もう、引き返せないのだと。
決定的ななにかを、この瞬間、同じものを見てしまった、感覚を共有してしまったこの瞬間。
飛び越えてしまったのだと。
「ええとですね!」
フェイトの手が、あわてていることを示すように少し乱暴にスケッチブックを机に置く。
「……コショウ!」
「…………コショウ??」
話を変えようとしているのは分かって、分かったけれどついていけなくて。面食らうネルに、あわてているフェイトがどこか上ずったような変な声で、
「クリエイションしていて、コショウが見当たらないとかで!! この前使ってたのネルさんだって聞いたから、」
スケッチブックを置いたフェイトの手が、そのままネルの手をさらった。その気になればすぐにでも振り解くことができるくらいゆるくゆるく、ネルの手をつかまえてそそくさと入口に向かう。
混乱が収まりきらないネルが、フェイトに引っ張られて入口に向かう。
「コショウとかの調味料、なんだか見当たらなくて。だからどこにしまったかを訊きにきたんですよ!」
「あ……ああ、みんな出しっぱなしにするから、この前叱ったじゃないか。ここが定位置なんだからって、教えただろう。右の棚の上の方だよ」
そのまま連れて行かれながら、ふと見た先ほどのスケッチブック。きっと置き方のせいでぱらぱらと風にページがあおられて、最後のページがネルの目に映って、
――このページのこと、フェイトに言わせなかったね。
ネルはぼんやり思った。
何を描いたと思ったのだろう、フェイトはそれに何を思ったのだろう。
滅多に描かない「絵」のうち、フェイトと出逢って以降はじめて描いた、その絵を。きっととてもフェイトの影響をうけている心を、心が現れているなら、きっとそれだって表れているこの「絵」を。
それを見てフェイトは、
……ネルのどんな心が、この絵に現れていると思ったのだろう。
……そんなネルの心に対して、何を思ったのだろう。
ひらひらと風に舞うページが、まるで手を振っているようだった。
自分が何を思っているのか把握できないネルの目の前で、ぱたん、音を立ててドアが閉じた。
