ふと浮かび上がるようなかすかなその美しい微笑が。
もしも独占できるのなら。
「ネルさん」
宿屋のロビーに、ふと気付いた人影。フェイトの位置からでは頭しか見えないけれど、大きなソファの向こうに鮮やかな赤い髪がゆらりと揺れる。ゆらり、……ゆらゆらと。
「……ネルさん……?」
つぶやくように、いくら距離があったところでいつもなら名前を呼んだなら機敏に反応するのに。いや、そもそも彼がロビーに姿を現した時点で、ネルはその存在に気付くのに。
ふしぎに思ってぐるっとまわりこんで、そしてフェイトは納得した。
降るようなやわらかな光の中、そうだ、たしかにこんなおだやかな陽気ではそれも当然だろう。
ネルは、シーハーツ最高位隠密の彼女は。
うとうととまどろみの海をたゆたっていた。
「疲れてるのかな」
つぶやいて、けれどやはり彼女は起きない。疲れて――そうだ、たしかに疲れているのだろう。男女差種族差、それ以外から元々体力に差があるのに、ネルはそんなことを感じさせないで、いつだって誰かを気遣う立場にいる。自称保護者のような体力馬鹿ではないにしろ男で若いフェイトの方が確実に体力があるはずなのに、まるでそれが当然のように女性のネルは彼さえもいたわってくれる。
無理をしているのだと思う、いや、彼女のこの寝顔を見てはじめてその可能性に気が付いた。無理をして疲れていて、だからこんなところでうたたねをしているのかもしれない、なんて。
「……ちゃんとしたとこに運んだ方がいいかなあ」
もちろんそれはそうだろう、別に今日は急いでどこかに移動する予定もないし。今はぽかぽかあたたかくても、こんなところでこんなに無防備に寝ていては、ひょっとしたなら風邪くらい引くかもしれない。ベッドに運んだ方がいいのは、まあ明白だろう。
「けど、触れたら起きるよなあ」
それはさすがに。
「居眠りしてるとこ、見られたって気付いたらなんだか怒りそうだし」
フェイトではなく自分を責めそうだし。
「うーん……」
どうしよう、どうしたらいいだろう。
至近距離でつぶやき続けているのに相変わらずネルは起きなくて、そんな彼女に触れることさえできないフェイトはどうしたものかと首をひねる。
無理をしているネルを知っている、たった今、気が付いた。
そんな無理しなくていいと思う、それに気付いたなら素直にそう思う。
いや、他の人間に対してはかまわない。けれど、どうやら自分だけを特別扱いしてほしくて。それが無理を重ねることなら、他の誰でもない彼に甘えてほしくて。
たとえばそれは、この旅の間だけではない。
許してもらえるなら、許されるなら。きっときっとこの先もずっとずっと。気の遠くなるくらいずっと先、どちらかがどちらかをおいて、「ここ」からいなくなるまでの長い長い間ずっと。彼が今まで生きてきた年数よりも、可能な限りずっとずっと長い間。
気が付いたことから、思考が芋づる式にのびていく。その思考に気付かずにいられない。
そばにいたい、支えさせてほしい。
いつも、いつだって凛としていてきびしいけれどやさしくて、隙がないようでいてそのくせどこか天然の彼女を。
護らせてほしい。
思うだけではない、それだけではなくてこの思考を彼女に告げて、許されたいと。
芋づるの志向は、そこにまでたどり着いた。一気に、一瞬で。――たどりついて、しまった。
自覚したなら、あとはもう、
「ネルさん」
あたたかな光の中、細い手をとる。剣を握りなれた手は決してやわらかいものではないかもしれないけれど、彼にしてみればこれ以上なくやわらかいものでもろいもので。何よりも愛おしい、保護欲をかきたてるもので。
「……ふぇいと……?」
それだけで予想どおり呆気なく目を醒ました彼女が、珍しいことにどうやら寝ぼけて、寝ぼけたままの笑みを向けてくる。くすぐったそうに笑うその顔は、独占したいのに誰もに自慢したい、そんな笑顔。
「こんなところで寝ていたら、風邪引きますよ」
「……うん。……あれ? あたし……、」
「ネルさんがそう望むなら、僕は忘れますから。なかったことにしますから。だから部屋で、ゆっくり休んでください」
いまだ寝ぼけているのか、ゆっくり起き上がってふにゃふにゃ周囲を見渡す姿に、かたちだけではない慈しむような笑みがきっと彼のくちびるに浮かんでいる。
先ほど浮かんで自覚した想いを、口に出すべきか迷う。
イエスでもノーでも、保留でも返事がなくても。彼の言葉にきっと振り回されるネルを、そうさせた自分を、許すことができるかと自分に問いかける。
いつもあれほどに凛として強くてきびしくて、けれど今はこんなにも隙だらけの寝起きの彼女に難問を突きつけていいものか迷う。こんな自分がネルを振り回していいものか、真剣に悩む。
悩みながら、けれど。
ふと浮かび上がるようなかすかなその美しい微笑が。
もしも独占できるのなら。
――その可能性がもしもあるのなら。
迷いながら、結局自分がどうしたいのか自覚もないままにフェイトの口がかすかに開いた。それを待っていたように、それとも単なる偶然だろうか。いまだゆっくり周囲を見渡していたネルが、ふと顔を上げて彼に固定した。
なぜかうっかりぎくりと動きを止めたフェイトに。
「……うちは代々婿養子だよ」
唐突に違いない、けれど今のタイミングではまるで思考を読まれたようでフェイトは目を白黒させるしかなくて。
そんな彼に、ネルが、今度は声を上げて笑った。
きっと確実に寝ぼけているのだろう、幼い笑顔を浮かべた。
笑って、――ああ、それは本当は寝ぼけてなどいなかったのだろうか。ひょっとしたら、最初から。
「それでもいいなら、努力してみな」
声を残して、彼女が立ち上がった。彼の手がつかまえたものは、するりとそこから抜け出した。
そしてまるで何もなかったように立ち上がって、もうフェイトを見ることもなく、ロビーを向こうに歩いていく。多分彼女の部屋に戻ったのだろう、彼の言葉どおりに。
あっという間にいなくなった彼女のその頬が、もしかしたら耳が、うっかり染まっていたかもしれないけれど。
うろたえるフェイトはそんな自分が見たものが、真実かどうか判別できない。
