それらはただの意地で。
自分の行動がどれだけ馬鹿なことと分かっていても。
「……フェイト、あんたねえ」
ひょいとのぞき込んだネルの執務室。中をうかがおうと思ったのに、それよりも先に部屋の主の顔がまず真っ先に目に入った。むしろその、芯の強いそれでいてやさしい、彼女の瞳がまず真っ先に目に入った。
つまるところ自分はとんでもなく間抜けなのだと、分かるつもりはなかったのに瞬時に分かってしまったけれど。
――えへら。
フェイトは自分でも分かっている気の抜けた笑みを浮かべると、何も言わないままぐっと腕に力をこめた。懸垂の要領で身体を持ち上げて、窓際の机から少し身を引いてくれたネルに感謝しつつ、重厚な執務机を飛び越えて彼女の横にすたりと降り立ってみる。
「フェイト、あんたね!」
「僕はこの国の恩人で、だから僕が通りたいって言えばたいがいの場所はフリーパスだって言いたいんでしょう? たとえ王城の中でも、個人の部屋だったとしても。
さすがに耳タコですよ、ネルさん」
「分かっているなら! ……どうして分かっていながら、あんた、窓から入ってくるかね……ここのところ毎回じゃないか。何考えてるのさ」
頭が痛い、とつぶやくのに、もちろん比喩だと知っていたけれど。真面目な心配顔を作ると、大丈夫ですかとすばやく距離をつめて彼女の赤い前髪をかき上げて、自分の額とこつりとぶつけてみる。
触れた瞬間は平熱そのもので、けれど次の瞬間かあっと熱くなったのを肌で感じて、フェイトは喉の奥で小さく笑った。
それらの彼の行動のどれにかは分からないけれど、怒ったネルが振り回したこぶしを一発だけわざと避けないで。命中の感触にはっとした彼女のそのちいさな手を包み込んで、今度は満面の笑みを浮かべる。
「……お久しぶりです。元気そうじゃないですか、安心しました」
「日に一回はこみゅに……ナントカで顔合わせてたじゃないか。何をぬけぬけと」
「えー? だって実物と画像はまったくベツモノですよー。何もないのよりはマシとはいえ、画像のネルさんには、ほら、こうして抱きつけないし」
「!! は、はなしなこのバカ!?」
包み込んでいた小さな手をくっとひっぱって、おかげでバランスを崩した細い身体を抱きしめる。その彼女の至近距離で、すう、と大きく息を吸い込んで、この香りに、ああ、シーハーツに帰ってきたんだなと馬鹿なことを実感した。
最初はじたばたしていたネルが、そのうちあきらめたのかおとなしくしてくれたので、嬉々としてそうっときつく抱きしめなおす。たぶん反射的にもがいてから、それでもしぶしぶ背に回してくれた腕が、その主が、――ああ、なんて愛おしいのだろう。
「――ただいま」
「……おか、えり……」
つぶやきに応えてくれる声まで心底愛おしくて、彼女を抱きしめた腕にさらに力を入れたなら、苦しいと怒られた。
闘いが終わって、フェイトはエリクールに留まった。本当は懐かしい地球に帰ることも不可能ではなかったけれど、むしろその方が自然だったけれど、いろいろな理由をでっち上げて結局は単にネルのそばから離れたくなくて、だからフェイトはエリクールに留まった。
その割に彼女の元、シーハーツを離れて好き勝手あちこちをうろついているのは。
――まあ、自分でも馬鹿だなあと思うわけだけれど。
しなやかでやわらかで極上の感触をたっぷり堪能して、ところであたし仕事中なんだけど、と恨めしそうにつぶやくネルに苦笑して、名残惜しかったけれどようやく手をはなした。とたんにぷいと顔を背けてどかりと乱暴な音を立てて机に戻ったネルは、たぶん照れていて、だからフェイトに顔を見せたくないからだと瞬時に分かる。
顔を背けた瞬間、それでも髪の間に見えた彼女のほほが鮮やかな赤毛よりも赤く染まっていたから分からないはずがない。――それを見られないようにしていたはずなのに、フェイトが目ざといのかそれともネルが迂闊なのか。
くすくす、小さく笑ってから、もう親の仇でも前にしたような勢いで乱雑にすごい勢いで書類に向かうネルの背中に、のんびり声をかけてみる。
「――ネルさん?」
「今は仕事中なんだよ! 街のどこかにいな、暇になったら探し出して呼びつけるから」
「え? 待ってますよ、別に仕事の邪魔するつもりはないし」
「もうしてるだろう!! ていうか、この部屋から出て行きなっつってんだよ! あたしが集中できないんだ!!」
「久しぶりに逢ったのに、つれないなあネルさん……」
「だったらそもそも、いきなり窓なんかから入ってくるんじゃないよ! 心の準備ができないじゃないか!!
――て、フェイト! 人が話してるときにあんた、勝手に部屋の中あさったりして何を、」
「だってネルさんも机に向かったままじゃないですか。人の目を見て話さないと説得力がないですよ。……と、ああ。あったあった。……あれ? 編んでくれてたんですか??」
「そのために持ってきてるんだろう!?」
仕事に集中しているフリのネルが、とうとう耐え切れなくなったらしく、ばっと振り向いた。別にそれが目的だったわけではないけれど、目当てのものを探し出したフェイトは、見つかったそれと、今のやりとりだけで肩で息をしているネルに影のない笑みを向ける。
いや、ネルを前にしたなら彼のほほはいつだってゆるみっぱなしだけれど。
「ええと、じゃあこれ今回の分のおみやげです。あ、もちろん他にもいろいろ持って帰ってきましたから!」
「……別にいいよそんなの」
「このへんじゃ見なかった食べものでしょ、何か面白そうな武具でしょ、適当な本でしょ……あと、グリーテンの最新情報とか」
「……あとで話つけとくから、あたしじゃなくてクレアに直接言っとくれ……」
――そういう情報はあいつの管轄なんだ。
つぶやくようにため息を吐くように、それでいて悔しさがめいっぱいにじんでいるネルを、もちろんからかうつもりはフェイトにない。素直な反応を見たいがための会話ではない、……見えてしまうものはたっぷり楽しむけれど。
ともあれ、先ほど見つけ出したもの、それなりに広くて資料などが満載な執務室の中で一見分かりにくい場所に大切に大切に隠してあったものに、実は最初からこっそり握りしめていたものをそっと添えた。
――作りかけの千本花と、今回の旅で手に入れた、今はだいぶぐったりとしおれてしまった花。幾度となくフェイトが持ち込んで、彼がいない間にネルが編んでくれていたものと。毎回毎回こつこつと根気よく集めているそのピース。
この調子ならたぶん次の旅で、完成するように見えた。
思って、確認して少し考えて、元の場所には戻さずに執務机の片隅にそれらをそっと落ち着ける。当然そこにはネルもいて、少しの空白でどうやらなんとか無理にも落ち着いたらしいネルがじっと見上げてくるのに、なんだろうと小首をかしげてみせた。
「……前から思ってたんだけどね。一体なんでまた、あんたが千本花なんか作ろうと思ったのさ」
真正面からの直球にかすかにひるんで、反射的に懐に突っ込んだ手をなんでもない風をよそおって引き抜いて、フェイトはあははと笑う。笑ってごまかされてたまるかとネルの目つきが鋭くなって、けれどそんなつもりはなかったから、何を言ったものかと少しだけ考える。
「今は、ひみつです。……これが完成したら教えますよ」
「別に無理に聞き出そうとしてるわけじゃないよ。言いたくないならそれでもいいんだ、……無理にごまかしたりしなくてもね」
まっすぐな目はどこまでも真剣で、本心以外であるはずがない。だからフェイトは首を振った。
「いいえ、そのときはネルさんにぜひ聞いてもらいたいんですよ?」
「……仕方ないね。待っててやるからとっとと次の花持ってきな」
「冷たいなあ」
懐にしまったままの、まだ渡すつもりのない小さな装飾品を思って、フェイトは小さく笑う。呆れたように肩をすくめてみせてから、話は終わりだと再び机に向かったネルの手つきは、先ほどとはうって変わっていつもどおり丁寧なのに笑う。
笑いながら、じゃあ道具屋にでも行ってきますよと声をかけたなら、ペンを持った手が後ろでにひらりと振られた。
名残惜しかったのは事実だけれど、ここにフェイトがいることでネルの邪魔になるのなら、仕方ない、その意思に従うことにする。部屋を出る直前振り返ったなら、そこには細くてまっすぐな背中があった。
エリクール中を回って、自分は確認しているのかもしれない。
本当に闘いは終わったのだと、この平和は幻ではないのだと。
けれどそれも、そろそろ終わる。海を渡ったグリーテンさえ歩きまわって、この世界この星の中はあと少し、次の旅の終わりには世界中足で歩いて確かめたことになる。
千本花は、ただのいいわけだ。
作りかけのものがあるからといういいわけで、今はネルの部屋を訪れているだけだ。個人的な用事だからという理屈を無理にこね回して、だからドアから入らない。正面から、彼女に向き合わない。向き合えない。
それらはただの意地で。
自分の行動がどれだけ馬鹿なことと分かっていても。
――次は、覚悟しておいてくださいね。
口の中でつぶやいただけの言葉に、何か言ったかい? とネルが振り返る。なんでもないですと今度ばかりは素直にびっくりしたなら、何か聞こえたような気がしたんだけどねえとネルがまたたいて、それからまた机に向かった。
凛々しい背中に、見えないけれど手を振って。そして彼は今度こそ部屋を後にする。まずは、そう。道具屋に行って消耗した荷物を補充しておかないと。
フェイトの馬鹿げた意地はまだ折れない。
懐の指輪は、まだまだ出番がこない。
