――この気持ちは、どこから来るのだろう。
ロキシおじさんが、亡くなった。バンデーンの銃撃からフェイトをかばって、その凶弾を胸に受けて、かばわれたフェイトの目の前で亡くなった。
ずっと捕まっていたソフィアには事態がよく分からなかったけれど、バンデーン兵は一応すべてやっつけることができた。知らない人たちに囲まれて、臆することなく前を向くフェイトは、剣の腕だけじゃなくて強くなったのだと思う。それはきっと、いろいろな面で。
そして今。
ニュースでしか見たことのなかった戦闘艦アクアエリーに、棺で眠るロキシ博士の前に、ソフィアとフェイトはいる。
「……フェイト?」
うつむいたままただ座っているフェイトに、ソフィアは小さく声をかけてみた。
ロキシ博士と最後に話してからこっち、フェイトはずっと黙り込んだままだった。いや、言われたことに反応するし、返事だってするし自分の意見だって言っている。しかし自分からは口を開くことがなくて、ずっと遠くを見たままで。
ソフィアには、なんだかロキシ博士がフェイトの心まで連れて行ってしまったみたいに思えてくる。
ずっと親しくしてくれていた、尊敬すべき博士が亡くなったことはもちろん哀しいけれど。それよりも抜け殻みたいなフェイトが痛かった。胸が苦しくて、息が詰まって、手を伸ばせば届く距離のフェイトは幻みたいで。
――まだ囚われているんじゃないか、と思う。
――捕まってから何度も見た悪夢の中に、まだ囚われているんじゃないか、と思う。
揺れる視界がさらに波打って、やがて何も見えなくなった。
「フェイト、フェイト……っ」
うわごとのようにフェイトを呼んで、ソフィアは子供みたいに泣きじゃくる。
ふと、フェイトが我に返ったように息を呑んだ。おずおずとソフィアの細い肩に触れるてのひら。その温かさにまた泣けてくる。
「……ソフィア、なんでお前が泣いてるんだ?」
困った声。近くなった声。ずっとずっと聞いていなかった、フェイトの声。
溢れる涙をてのひらに受けて、ソフィアは小さくしゃくりあげる。
「なんで……なんでフェイトは泣かないの? 泣けばいいじゃない。おじさんが亡くなったんだよ? 誰も怒らないし、バカにしたりなんかしないよ??」
「うん……そうだね」
ため息。ソフィアの肩に触れた、自分の手に額を押し付ける。
「分かってる。……でもさ、なんでか泣けないんだ。なんでだろう。父さんが死んで、目の前が真っ暗になって、でも、なんて言うのかな、今は……哀しくないんだ」
「……?」
「現実感が、ないんだ。……シミュレータのシナリオモードでもやってるみたいに、何か一枚フィルターがかかってる。世界がなんだか遠いんだ」
「フェイト……?」
「ソフィア、お前は今ここにいるよな? ここに確かに、いるんだよな??」
横に並んで座ったまま、目線を同じにして覗き込んでくる。
その緑は、不安に揺れて心細そうだった。触れている肩に力を込めたなら、幻がかき消えてしまうとでも言うように。抱きしめて存在を確かめたなら、夢が覚めてしまうとでも言うように。
――そう思ったらふつふつと怒りが湧いてきて、ソフィアはフェイトに抱き付くと、力いっぱいその身体を締め上げた。
「バカにしないでよ。フェイト、わたしを勝手に幻にしないで。ほら、こうやってさわれるでしょう? ウソでも夢でも幻でもなくて、わたしはちゃんと、ここにいるよ?
……やっと会えたのに。やっと助けてもらって、やっと自由になったのに、フェイトはまだわたしがあいつらに捕まってるって言うの?」
どんなに力を込めても大きな身体はびくともしない。全力で締め上げているのに、まるでじゃれ付いているみたいだ。それでもぎゅうぎゅうと力を込めるのを止めない。
「わたしがあいつらに捕まっているなら、ロキシおじさんだって生きている。そんなこと言うつもりなの?」
言っているうちに感情が高ぶってきて、一度は落ち着いた涙がまた零れてきたのを知らないふりをする。戸惑ったフェイトが、戸惑いながらもおずおずと抱きしめ返してくるのにも気付かないふりをする。
「それって、今ここにいるわたしをバカにしているってことだよ? 今ここにいるロキシおじさんが、見えないって言ってるのと同じだよ? フェイト、それ分かってる??」
「うん……ごめん、ソフィア」
背中に回るフェイトの腕。温かい身体に包まれる。
ソフィアは不意に、ずいぶん大胆なことをしている自分に気が付いた。
考えてみれば、こうして抱き合うのは何年ぶりだろう。小さいころは何かあると抱き付いていたけれど、少なくとも中学に入ったあたりからそんなことはしていない。覚えている限り、フェイトからそうしてきたことはないし。頭や肩を軽くたたかれたり、せめて手を握ったり。怒ったソフィアがぽかぽかとフェイトを殴ったりはたいたり。
ハイダでバンデーンの攻撃を受けたあの時だって、フェイトは、すがり付いたソフィアの肩を抱いただけだった。
自分と同じかちょっと大きいくらいだったはずの身体は、もうソフィアがどんなに頑張ってもまるで腕が足りないくらいに大きい。そっと抱き寄せられるだけで、すっぽりと包み込まれてしまう。
そう思った瞬間、かああっ、とソフィアの顔が熱くなる。
「ごめんな、ソフィア。……うん、お前はここにいるんだよな」
くっついているおかげで、フェイトには真っ赤になっているだろう顔は見えないはず。でも、意識した瞬間からどくどくどくとものすごい速さで打ちはじめた心臓には気付かれるかもしれない。それが嫌であわてて離れようとしても、ソフィアを優しく包んでいるフェイトの腕はびくともしない。
いや、じゃないけど。恥ずかしい。ぬくもりに落ち着くけど、いたたまれない。
パニックを起こして逆に凍り付いているソフィアに気付いているのかいないのか、フェイトのてのひらが彼女の背中をゆっくりと移動する。確かめるように、いつくしむように。移動する熱にはまだすがる色が残っているのに、ぞくぞくと寒気が、寒気と一緒に甘い何かが、ソフィアの背筋を這い上がる。
なんだか何も考えられない。
「……はぁ」
どれくらいそうしていたのか。
フェイトが大きく息を吐いた。全身毛を逆立てた猫のように緊張しているソフィアをさらにきつく抱きすくめて、
「何か、落ち着く……」
「ふぇ、フェイト……っ?」
声にほんの少しの笑いを感じ取って、声を上げるソフィアに今度は頬擦りまでして、
「やわらかくっていい匂いがして気持ちいいよ、ソフィア」
「フェイト!! ち、ちょっとバカにするなら離して、ってば、……」
「馬鹿になんかしてない」
きゅ。
きつくきつく抱きすくめられて、我に返ったソフィアが全力でもがいてもやはり力は緩まない。息苦しくはないけれど、いやではないけれど、早鐘のように打っている心臓が痛いほどで、大きく喘ぐように息を吸ってもまるで酸素が足りなくて、あまりの気恥ずかしさに消えてしまいたい。
「ふぇい……っ」
「馬鹿になんか、してないよ。……ソフィア、ごめん、もうちょっとこのままでいて……」
抗えない強い力。笑いだけではない、何か苦いものを含んだフェイトの声。笑いながら、何でもないことのように言いながら、しかしその腕にいつの間にかすがるものがまた戻っていた。
細かく細かくフェイトの身体が震えている。切ない何かがソフィアの胸に広がっていく。
――この気持ちは、何と言うのだろう。
――この気持ちは、どこから来るのだろう。
フェイトを引き離そうとしていたソフィアの腕が、迷うようにしばらくうろうろした後、そっと遠慮がちに彼の背に回った。儚い力で応えるソフィアに、さらにさらに優しく強く、フェイトが彼女を引き寄せる
「……落ち着く?」
「うん」
子供のようにうなずくフェイトが、泣いているわけではないのに泣いているみたいなフェイトが、いとおしくて。激しく打つ心臓も苦しい息もなかったことにして、小さい子をあやすようにソフィアはその広い背中を軽くたたく。
「泣いても、いいんだよ?」
「泣かないよ。……うん、泣かない」
「どうして?」
泣けばすっきりするのに、とソフィアが言うと、フェイトは淡く微笑んだようだった。
「……まだ、泣くときじゃないような気がするんだ。だから……」
「だから……?」
不意にフェイトの腕から力が抜けて、そう気付いたときには肩を掴まれて離されていて、そしてその状態で見つめ合っていた。フェイトの背中に回していたソフィアの腕が、中途半端な形でそのまま残っているのが恥ずかしくて、わたわたする。フェイトはその様子に少しだけ目を細めると、いつもの、ソフィアの知っている笑顔でささやいた。
「今は、泣かないから。だから……だから、ソフィアが僕の分まで泣いてくれないか? さっきみたいに泣いてほしい。泣けない僕のかわりに、僕の分まで」
なんだかいつもよりも低い声にどきどきと痛いほどの心臓。しかしソフィアはそれよりも、引っかかる単語をフェイトの言葉に見付けて、
「「泣かない」の? それともフェイト、「泣けない」の?」
おろおろしていた両手で、フェイトの頬を包む。こつん、熱を測る時のように額を触れ合わせる。
見上げる緑は、いたずらがばれた時のような少し居心地の悪そうな色。
きょと、とわずかに視線を逸らして、それはいいわけを探している時のフェイトの癖だとソフィアは分かっているから、わざとらしく頬を膨らませてみせる。
「……どっち?」
先ほどのフェイトの言葉を思い出して、さらに畳みかける。
「まだ、ひょっとしてまだ現実感がないって言うの? だからいまいち哀しくなくて、だから泣けないの?」
「違うよ」
今度は即答。さらにじっと見つめると、困った顔になる。
「そうじゃ、ない……そうじゃなくて、」
「――哀しすぎて、泣けない?」
小さく首をかしげて助け船を出せば、一瞬呆けてから、うん、とうなずいた。肩にあった手はゆっくりと離されて、多分意味もなくソフィアの髪を右手の指に絡めて、考えながらつぶやく。
「ありきたりな言い方すれば、胸に穴があいたみたいな感じ、かな。大きな風穴が開いて、ずきずき痛むけど、それだけ……なんだ。哀しいんじゃなくて、痛い。痛くて、淋しい。……うまく言葉が見つからないけど、そんな感じ」
ちらりと棺を見やって、そして首を振る。つられてソフィアも横たわるロキシ博士に目をやって、ずっとフェイトの頬にあった手を、胸の前できゅっと握りしめた。
外傷は、少なくともソフィアの目には見えない。苦痛の色はなく、かといって微笑などの柔らかな色があるわけでもなく、ただ表情を凍らせてそこにある遺体。精巧な人形のようにも見えるし、あるいは単に眠っているだけにも見える。
どちらにせよ確かなのは、目を開けることも起き上がることもしゃべることも、もう二度とないということ。
そう思ったら不意に涙で視界が揺れて。
くすん。洟をすすれば、フェイトがぽふっとソフィアの頭に手を乗せる。そしてその頭を抱え込む感じで、また再び抱き寄せられた。
――この気持ちは、何と言うのだろう。
――この気持ちは、どこから来るのだろう。
哀しい、切ない、つらい、痛い、淋しい。それはロキシ博士に対する気持ち。嬉しい、どきどきする、落ち着く、安心する。これはきっとフェイトに対する気持ち。そして、……愛しい。
この気持ちがどこから来るのか、この気持ちの本当の意味は何なのか、ソフィアには分からない。
正反対の矛盾する気持ちがソフィアの中で溶け合って、ただただ涙が溢れてくる。あるいは、――あるいはこの涙は、フェイトの心が流れ込んでくる、からかもしれない。
「……いつか、泣いてあげてね……? 今じゃなくてもいい、哀しんで送り出してあげてね?」
「うん。……ごめんな」
「謝らなくていいから。だから、フェイト……」
「……ん」
言葉にしなくてもきっと伝わっているこの思いは。――どこから来るのだろう。
どこに、行くのだろう。
