この身体の震えを止めることができるなら。
敵モンスターの最後の一体が、ようやく倒れた。
口々に勝ちどきを上げて、この場では流れた血で別のモンスターが寄ってくるかもしれない、と。血みどろで、負った傷がずきずきするけれど、とにかく全員無事だからと。誰か声に出して言ったわけでもないけれど、一行はとりあえず少し離れた場所に移動する。
移動して、そこで傷を癒したり血を洗い流したり、それはいつものことだったのに。
「フェイト?」
皆につられて少し歩いて、何かが違うような気がして。ふっと振り返ったソフィアは。
うつむいたまま動かない幼馴染に、きょとんと首をかしげた。
「フェイト……? ねえ、移動しないと危ないんでしょう??
歩けないくらいひどい怪我、したの?」
――どうしたのだろう。
パーティのリーダーとして、いつもはまず真っ先に歩き出すのに。真っ先に歩き出して一行の先頭を歩いて、移動した先が安全かどうか、自分をまるでおとりにするような形で、確かめるのに。
どうしたのだろう。
先ほど戦った、今もこの場に死骸の残るものたちは。戦闘慣れしていないソフィアの目から見ても、ここ周辺のモンスター、で間違いないと思うのに。今回多少数は多かったけれど、もちろん全員無傷というわけにはいかなかったけれど。危なげなく倒して、うずくまるものたちは完全にこと切れていているのに。
どうしたのだろう。
怪我を負ったのだろうか、たとえば歩くのに支障が出るような脚などに。今回の戦闘ではなくて、たとえばその少し前に戦ったときなどに。何か怪我を負って、それが痛むのだろうか。流した血で貧血気味で、闘いに勝って気が抜けた瞬間、めまいなどにでも襲われたのだろうか。
どうしたのだろう、どうしたのだろう、どうしたのだろう。
こうしてソフィアはゆっくり歩いて近寄っても、歩きながら問いかけても。うつむいた顔を上げることもなく、返事をすることもなく。ぶつぶつぶつ、何かつぶやきが聞こえるのは気のせいだろうか。
少し離れていた間に目を見張るほど大きくなっていた幼馴染が、今はなんだか小さく見えてしまう。戦闘に慣れなくて、戦うことにいつまで経っても慣れなくて。魔術の杖を片手にきゃーきゃー逃げ回るしかできないソフィアよりも、なぜだろう、今は彼がなんだか小さくさえ見える。
「フェイト?」
ずっくりと赤くぬかるんだ地面、抜き身の剣を片手になにやらゆらゆら揺れながら。まるで動こうとしないフェイトを、ソフィアはか細い声でもう一度呼んでみる。
どうしよう、どうしたら良いだろう――今のソフィアに、何ができるだろう。
癒しの呪文を使うことができる、解毒の呪文を使うことができる。――けれど果たしてそれで、フェイトがいつもの彼に戻ってくれるだろうか。
ひょっとして今戦った敵に魅了されていて、それが解けていなくて。だから何度も呼んでいるソフィアの声さえ届かなくて、それでここに突っ立っているのだろうか。もしもそうなら、彼に触れた瞬間彼に近付きすぎた瞬間。その手に下げている剣でばっさりやられてしまうのだろうか。
「フェイト……」
ただ彼の名前をくり返し呼びながら、ソフィアはどうすればいいのか分からない。
仲間たちはもうずいぶん離れてしまった。助けを呼ぼうにも、せっかく近付いた距離を広げてしまったら、心の距離まで広がってしまいそうな気がする。混乱しているとして、それで間違えて剣を向けられるのは確かに怖いけれど。ふと思ってしまった、そう、離れた結果心の距離まで広がってしまうなら。そちらの方がソフィアにはよほど怖くて。
――どうしよう。
あと、四歩ほど。
色の変わった地面の手前、まるで靴が汚れるのを躊躇しているように。本当は別の意味でためらいながら、ソフィアはフェイトをもう一度うかがう。
どうしよう。――どうしたら、いいのだろう。
迷って迷って迷って、どうしていいかも分からないままに一歩脚を踏み出す。たった一歩でも踏み出してしまえばあとはスムーズに、足元の感触は無視して進んで、ソフィアはすぐにフェイトの脇にたどり着く。
「フェイト……」
ここまできて、なおためらって。周囲を見渡して、戦闘ができたくらい見通しの良いこのあたりには何の人影もなくて。
だから誰もソフィアにどうしたらいいのかを教えてくれなくて。
「ふぇ、」
もう一度、せめて名前を呼ぼうとした――その時。
ソフィアの目には信じられないものを目にして、彼女の思考がかちんと凍り付いた。
小さいときから、ものごころ付いたときから。むしろ、生まれたときから、さらにはその前から。
親が研究仲間だった、という外的要因はどうでもいい。
――フェイトはソフィアにとってずっとずっと、「頼りにして良い特別な存在」だった。
淋しいときは一緒にいてくれた、困ったことがあると助けてくれた。暗闇が怖いと泣けば僕がいるから安心していいよと手を握ってくれて、いつだってどんなときだって、ソフィアにはやさしい笑顔を向けてくれた。
それが当たり前で、彼女にとってフェイトはいつでも完璧だった。
日常だらしがなくても、いざというとき彼ほど頼りになるナイトはいない。バンデーンに捕まったときにもその心は揺らがなかったし、果たして、しばらくぶりに再会した彼は以前よりも比べものにならないくらい、「頼りになる存在」に成長していた。
フェイトが「弱い」姿を、ソフィアは見たことがない。病気でふらふらでも、ソフィアの前でだけは大したことないよと笑ってくれていたから。少し前、父のロキシを失くしたときでさえ。ふさぎ込んではいても、フェイトは本当の意味で「弱い」姿をソフィアには見せなかったから。
――だから、こうして見えたものに。
ソフィアの思考が凍りつく。
いつもどおりの敵だった。数は多かったけれど、ちゃんと全部倒した。ソフィアの目から見てそう見えたし、事実それは間違いがないだろう。
それなのに。
フェイトは、赤い泥の中ただ立ち尽くす幼馴染は。
――とても血の気の引いた文字通り青い顔で、全身細かく震えながら、そう、至近距離のソフィアだから分かる。
歯の音が合わないくらい、ひどくひどく怯えている。
――フェイトが。
――ことソフィアの前では、いつもいつも強くて頼りになる存在だったフェイトが。
いつも強がってみせたとしても、完璧にそう演じきっていたのに。それなのにそのソフィアの声さえ届かない、そんな「何か」に、恐怖に捕らわれている。
――どうしたらいい?
――わたしには、何ができる……??
驚きで、いまだソフィアの思考は凍りついていて。当たり前なのに、今までそう思ったことがなかった。彼女にとって完璧な幼馴染でも、人間なのだ。
何かに怯えることも、あって当然なのに。
それでも、そんなことないと信じていたから。だから驚いて、ソフィアの思考は気付いた瞬間から真っ白のままで。
いっそ狭くなった視界が、その時何か動くものを捕えた。
とうとうこの流れた血に別のモンスターが寄ってきたのか、そう思ったのは視界の片隅。
実際には、動いたものはソフィア自身の腕で。
次の瞬間、彼女は彼を抱きしめていた。
――わたしは、何をしているのだろう。
真っ白な、思考はずっとずっと色を取り戻してくれない。それなのにそれが当然のように、彼女の身体はフェイトを包み込む。彼女自身の身体より大きい青年を、やさしくやさしく包み込む。
身体に直接伝わるのは、隠しようがない彼の怯え。
――わたしは、何ができるのだろう。
やさしく彼を包みこんで、ソフィアの頭はまるで何も考えられないのに、彼女の身体は勝手に動く。
そうだ、パーティに入って最初の戦闘のとき。闘いが終わって緊張の糸が切れて、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちて、怖いと泣いた彼女に他でもないフェイトがしてくれたのと、同じことを。
今、そのソフィアが、フェイトに対して同じことをしている。
――大丈夫だよ。
――怯えなくても、大丈夫だよ。
――みんな、生きている。
――みんな、無事だから。
――怖がることなんて、何一つないんだよ。
あの時もらったやさしい呪文を、彼女の脳が把握しないまま、ソフィアの口が紡いでいる。
――大丈夫だよ。
――怖がることなんて、何一つないよ。
そうだ、いつもいっぱいいっぱいもらってばかりいるから、
だからこうして返すことができるのは、嬉しい。
この身体の震えを止めることができるなら。
そうだね、今のわたしはそのためだったらなんだってできるよ。
弱くなんかない、いつも強いフェイトをわたしは知っているから。
大丈夫、何も問題なんかない。
たまに頼ってくれるなら、
頼りないわたしを頼ってくれるなら、それはとてもとても嬉しい。
真っ白だったソフィアの頭にとりとめのない言葉たちが浮かぶ。腕の中のフェイトが、その震えがゆっくりゆっくり小さくなっていく。
きっともうあと少しで、
たぶんきっといつものフェイトに戻る。
いつまで経ってもやってこない二人に痺れを切らして。駆けつけた仲間たちの足音が、聞こえたような気がした。
彼女の腕の中の青年がなんだかびくんといきなり跳ねて。
――それが嬉しくて、
――それは淋しくて。
――もっとわたしを必要としてくれたらいいのに。
彼女の把握しない彼女の心の奥底が。
……そんなことを、思う。
