多分これ以上のものなんて。
この世界に、存在なんてしない。絶対。
「フェイト?」
ドアをノックした。宿屋のドアはどの部屋も同じつくりで、けれど未開惑星特製の木のドアだからか、たとえばハイダのホテルの部屋のドアよりもよっぽど愛想とぬくもりがある。
なんてことのないそれが、それでもなんだか新鮮で面白い。
「ねえ、何の用? 入っていい??」
とんとん、ともう一度ノックして声を上げたなら、ここでようやく中からくぐもった返事があって。何をどうしているのか、何かどたばたとあわただしい音もあって。
――えっちな本でも隠してるのかなあ。
まず絶対にないことをぼんやり思って、彼女は、ソフィアはドアを前にこくんと首をかしげる。
――うん、よし。……どうぞソフィア。待たせて悪かった。
ドアごしのフェイトの声はなんだか微妙に遠くて、いつもならドア開けて顔出してくるのにな、といつもと違うことを発見してこくりと逆の方向に首をかしげてみる。けれど少し待ってみてもそれ以上の物音はしなくて彼の足音――はまあじゅうたんに消えているのかもしれないけれど、とにかく何の音もしなくなってしまったから。
「……おじゃましまーす……?」
本当にいいのかなとどこかまごつきながら、彼女は静かにドアノブに手をかけた。
――ソフィア、あとで僕の部屋に着てくれないかな?
町に着いたのが昼過ぎ、夕食まで自由行動だと解散するまぎわに、フェイトがそう声をかけてきた。
――何か用なの? すぐにすむなら今から行くよ??
――いや、ちょっと準備したいから今すぐじゃない方がいいなあ。ダメかい?
――ダメじゃないけど……一体何?
――ひみつ、ていうか、来てみてからのおたのしみ♪ じゃあ、適当にあとで。
――うん……?
声をかけてきたフェイトはそれきりあっさりいなくなって、あとに残されたソフィアは何ごとだろうと眉を寄せる。
幼馴染をやってソフィアの年齢分、少し前までの数ヶ月だけ離れていた時間があって、とりあえず思い出すことのできる限りの過去に、――けれど彼の企んでいることはどうにもよく分からない。
……なんだか嬉しそうに笑っていたけれど。
……その笑いは、たとえばいたずらめいたもの程度で、黒っぽくはなくて。
……けれど本当にいたずらをしかけるつもりなら、むしろ彼の性格上そういう企む笑みをその対象、今の場合はソフィアに見せるはずがなくて。
……そうして彼女に警戒させる前フリなんて、長い付き合いから、彼はしないとソフィアは知っていて。
――……裏、かくつもりかなあ。それとも違うことかなあ。
考えても分からないと知っていながら、それでも考えてしまって。精一杯顔をしかめてうんうんうなってみても何も思いつかない。他の仲間たちは、当のフェイトも含めていつの間にか周囲からいなくなってしまっている。気付いたらソフィアがたったひとりその場に取り残されていて。
――とりあえず、荷物をおいて部屋を確かめて、それくらいでいいかなあ。
――一体何の用だろう?
「……フェイト??」
小首をかしげたまま薄く開いたドアの向こうからは、なんだかふわりといいにおいがした。それはソフィアにはなじみで大好きな香りで、けれどフェイトにとっては……昔はともかく、ここ数年はあまり得意ではなくなったはずの香りで。
「え……?」
わけが分からない。
さらにドアを開いてきょとんと瞬くソフィアの視界には、黒と白でばしっと決めた格好のフェイトがにこやかにぴしっと立っていて。
「何、これ……?」
「まあまあ、とりあえず座って」
「う、うん……」
どうぞ、と椅子を引かれて思わずそれに従う。従ってから思わず振り向いて確かめたフェイトは、向こうの方にこっそり用意していたらしい盆をうやうやしく……取り上げようとしてやめて。そのとなりにあったティーポットとカップとソーサーとシュガーポットとミルクポットの茶器一式を、微妙に危なっかしい手つきで取り上げる。
――その格好は、何。
黒と白、というか黒が大部分の、のりがぴしっときいたアイロンがこれでもかとあてられた、その格好は。知っているし見たことがあるし、だからそれがどんな服なのかソフィアも知っているけれど、これをフェイトが着るなんて、そんなことはどうにも想像さえしたことがなかった。
――その格好はなんなの、似合っているけど。
今すぐに訊ねたいけれど、危なっかしい手つきで茶器一式運んでくるフェイトにそれを訊ねたら、その拍子に手にしたすべてをぶちまけてしまいそうで声を出すことができない。そもそも意外性で驚きで声の出し方を思い出すことができない。
――一体、何……?
「あとは、こっちな」
「ええと、」
「僕が作ったよ。……いや、ひとりじゃ無理だったけどさ」
――本当に、何なの。
「文句も質問も、あとで聞くからさ。説明するから。……とりあえず食べろよ。な?」
「う、うん……うん」
紅茶はミルクティー、これも、と出されたのは生クリームの添えられた少しだけ不恰好なザッハトルテ。言われてすすめられてその勢いに押されておずおず口に運んで、
そして、ただでさえくるっとしていたソフィアの目がまんまるに見開かれた。
「がんばってるソフィアにごほうびだよ。……ソフィア見習って、今回は手作りにこだわってみたんだ」
照れたようにフェイトが笑って、ぽかんとしたソフィアの口から、おいしい、と蚊のなくようなつぶやきがもれる。ばばっとあおいだ彼は、照れ笑いがじわじわしてやったりの笑みになって、その表情の変化がソフィアの目になんだかくすぐったく映る。
「……ありが、とう……びっくりした」
「こういうのも悪くないだろ?」
首をふる。あれ、と一気に間の抜けた顔になったフェイトに、ふにっと満面の笑顔を向ける。
「さいこう、だよ。ケーキおいしいし、フェイトも格好いい」
いつもはまず見ることのないそのもの珍しい格好は、それでも彼にばっちり似合っていて。彼が出してくれたケーキも紅茶も、たとえば見た目がたとえ少しだけ不恰好だとしても彼の存在の付加価値もあるかもしれない、味はとてもとてもおいしいものになっていて。
ぽかんと間の抜けた顔になったフェイトがやがて声をあげて笑いだして、ソフィアもくすくす笑いがこみ上げっぱなしで。
きっと感激に、視界がにじんでいるのはなんてもったいないのだろう。せっかくのすべてが涙にくもっているなんて、ああ、なんてもったいないのだろう。
悪くない、なんてものではない。
多分これ以上のものなんて。
この世界に、存在なんてしない。絶対。
ああ、これ以上の幸せなんて。
これ以上こんなにこころふわふわと幸せで満たしてくれることなんて。
きっと――絶対に。
