たっぷり積もった雪が音を吸う、やけに静かなその世界に。
彼女とただふたり、心おだやかにいられることはきっと、――
「フェイト……! ほら、すごい……ぜんぶまっしろ!!」
「雪つもったんだから当然だろ」
「だってわたし見るのはじめてなんだもん! うわあうわあ……」
一面の雪を目にして、彼女の目が子どもみたいに無邪気にきらきら輝いた。喜んでいる姿が本当に幼くてくすりと笑ったなら、一瞬だけぷくっと不満そうに頬をふくらませて、けれどすぐにきらきらの笑顔でその雪めがけて全力で駆けていく。
一面の白の中、転がりそうな勢いで駆け回る彼女の口元から時おり白いものがぽうっと浮かんで、悪魔の吐息もあたたかいのか、などと思うフェイトの口元も白いもやと一緒に確かに笑みのかたちにゆるんでいて。
たっぷり積もった雪が音を吸う、やけに静かなその世界に。
彼女とただふたり、心おだやかにいられることはきっと、――
ある日、空から悪魔が舞い降りた。
栗色の髪と豊満な肢体とやや幼い愛らしい顔だちと。黒ビロウドのこうもりの羽と艶やかな黒い尻尾ととがった牙ととがった耳と。
その特徴だけは絵に描いたように悪魔らしい、けれどあまり悪魔らしくない印象の彼女はソフィアと名乗って。極上の笑顔で彼女が名乗って、釣られたように彼も名乗ってしまって、たったそれだけで発動した不完全な契約で奇妙な同居生活がはじまった。
「三ヶ月、かあ……」
小さくつぶやいた彼に、何がおもしろいのかひとりで雪の中を駆け回っていた彼女がくるりと振り向く。その顔はやはり笑顔で、たったそれだけでなんとなく苦かったはずのフェイトの心はすっかり苦さを忘れて、おいで、と手をさし出したなら彼女の顔がさらにぱあっと明るくなる。
駆けて来る勢いが支えきれなくて、ぼすっとふたりで雪の中に倒れこんで、冷たいよと苦笑まじりにフェイトがぼやけば、あははと彼女が無邪気に笑って。
きっとこんなおだやかな奇跡、長続きしないよなと思ってしまった。
あの日から三ヶ月ももった、それこそ奇跡みたいなものだよなと思ってしまった。
起き上がりながらの彼女につられての笑顔のすみ、心のすみでそんなことを確かに思ってしまった。
そしてまるで彼のそんな不安を待っていたかのように、
ふと、笑顔だけだった彼女の顔が何かに怯えたものになる。わけが分からなくて、いや、それでもなんとなく予感めいたモノがあって、ぐるりとフェイトが首をめぐらせたなら。
まだひとかたまりで雪の中に埋もれているふたりめがけて、確かに何かが、
それはまるで、静かに降る雪のように。
ひらりと舞い落ちる羽根のように、風にさらわれる蝶のように。
重さを知らない動きで降りてきたのは、光、のようだった。明るいけれどまぶしくない不思議な光は、地表近くになるといつの間にか人影のようなものになっていて。
青く鮮やかな髪と華奢な肢体と硬質の美貌と。背に負うのは純白の羽根、身を包むのは他者を圧倒する凄み、誰もの目を心を惹きつけてはなさない圧倒的な魅力。
小さな手がきゅっとすがりついてきて、それでようやく我に返った彼に。
「フェイト……フェイト・ラインゴッド?」
引き絞った弓を思わせる、凛とした声が降ってきた。
分かっていた、知っていた。細い細い糸の上を無理に渡ろうとしていることくらい、とっくに気付いていた。
彼女は、悪魔で。
彼は、人間で。神学校の生徒で、つまりは悪魔に敵対しているがわの存在で。
彼女の存在がばれたなら、特待生の立場にいるフェイトはかなり困ったことになる。彼女も教会関係者に追い回されたあげく、最悪祓われるかもしれない。
どう希望をこめて考えてみたところで、このままのぬるま湯の生活が維持できるとも思えない。朝目醒めたら彼女の笑顔があって、夜寝るときにも彼女のぬくもりがそばにあって、こんなに幸福な生活がいつまでも続くとは思っていない。
けれど、
けれどこの不安定な均衡を崩すのがまさか、天使、だなんて。
「……本当に悪魔に魅入られているなんて」
「なんだよ……いきなり、」
さらりと落ちてきた髪を流して、たったそれだけの仕草さえ優雅で思わず見とれそうになる。それはもはや意地だけでうめいたなら、綺麗だけれど澄みすぎてかえって底の見えない翠の目が、哀れむように細くなった。
「ひとは、神の子羊よ。あなたなら知っているでしょう? フェイト・ラインゴッド」
細い指が怯えて小さくなる彼女を、フェイトにすがりつく悪魔を指して、
「中途半端な契約なんて、あなたのちからがあれば破棄できるじゃない。知らないなんて、言わせないわ」
「……契約は!」
跳ね上がった悪魔の声は、けれどすぐにうつむいた。怯えた声がぼそぼそと、
「契約は……約束は。フェイトは、それを破るようなひとじゃ、ない……」
「知っているわ。だから私が来たのよ」
きゅ、赤い口の端が持ち上がって笑みによく似た表情を彼女ははじめて浮かべて、
「はじめまして。マリアよ。……よろしくね?」
それは果たして、どちらに向けた挨拶だったのか。現れたときと同様、いやそれ以上に唐突に、次の瞬間天使の姿はかき消えていた。
白い雪の中、埋もれるようにいつか元通りふたりきり取り残されていて。
ただ、青い髪の天使はフェイトの不安が見せた幻ではない、と主張するように。
純白の羽根がひとひら、その場には落ちていて。
「……フェイト」
黒い羽根を負った少女が、弱々しく彼の名を呼ぶ。泣きそうな顔で、今にも泣き出しそうにふるえる声で、つぶやくように彼の名を呼ぶ。
のか細い声が彼に呼び起こした、この激情は。果たして何と呼ばれるものなのか。
「ふぇ……、」
「――一緒に、いたいんだ。誰にも邪魔されたくない、ただそれだけなのに」
やわらかくて頼りない、彼女の肢体を抱きしめる。かすかにふるえる身体は、先ほどの天使のせいなのかそれともこうして抱きしめる彼のせいなのか、もしかしたら不意にぞくりとしみこんできた寒さのせいかもしれないし、それ以外の理由かもしれない。
分からない、――そんな自分にただ苛立つ。
名前を呼ぶことさえできない、求めることも許されない。
結局は我が身がかわいくて、彼女が求めるものを与えてやることができない。
それでも。
かなうなら、許されるなら。……望むことは、たったひとつなのに。
「…………!」
音のない声で、悪魔の名前を呼んだ。
いまだふるえる細い腕が、そんなフェイトの背に回って。
それが多分それぞれの精一杯で。
ざわめく心は、……まだしばらくは凪ぎそうに、ない。
