隠密として、国の重鎮として。今まで数え切れないほどの人間に会ってきたけれど。
――あいつほど読みにくいやつは、他にいない。
「へらへら笑ってんじゃないよ!」
「あてっ」
その日何度目かの戦闘が終わって、陽の傾き具合からこのへんでそのまま野宿しようということになって。負った怪我が比較的軽い上、治癒術を覚えているフェイトは一人でどうにかなると踏んだネルは、ひどい怪我を負った上治癒術を知らないもう一人へと駆け寄った。
かすかに赤みを帯びはじめた陽の光に照らされて、金の髪があかがねの色に染まっている彼は。
やってくるネルに、いつものしまりのない笑みを向けた。
血の海、まではいかないもののかなりの出血をして、しかもそれがすべてではないけれど側頭部の怪我からとなれば。むっとしたネルは、クリフのむき出しの二の腕を軽くはたいた。見た目出血も打ち身もないそこでも、はたけば衝撃が走るのか。
クリフがどこまでも軽いまるで信憑性のない悲鳴を、小さく上げる。
「……ったくもう……ガタイ見れば人並外れて頑丈だってのも分かるけどね、ちょっと過信しすぎてないかい?」
「そうでもねえぜ。見た目ひどくても、大して痛かないし」
「それが過信だってんだよ。ていうよりこれが本当に痛くないなら、神経に障害があるね。命取りになる前に専門家にかかったらどうだい。
何だったらあたしの知り合い紹介するよ」
術を使おうとしたら、応急処置だけしてくれれば良いとかたくなに断るので。しばらくの押し問答の末、今度怪我したら問答無用で術かけるからねの言葉を最後にネルが折れた。傷口を洗って止血処理をして包帯を巻く。手早く的確でそれでいて彼女らしい気配りを忘れない処置に、クリフがなんだか嬉しそうに口元をにやつかせる。
ネルの神経が、逆なでされる。
「……さっきも言っただろう! そんな風に笑ってんじゃないよ気色悪い!!」
「気色悪いとはひっでえなあ。
……感謝してるんだぜ? オレなりに精一杯」
「伝わらなきゃ意味ないね!」
フン!!
……何が癇に障るのか、よく分からない。
つんとそっぽを向きながらもネルの手は止まらずに、それきりクリフも黙って、無言の時間が過ぎていく。元々そう言う顔立ちなのかやはりクリフの顔はにやついたままで、それを見るたびに腹が立って仕方がないから。
ネルはクリフの顔を見ない。
――クリフのにやついた顔が、嫌いだ。
こめかみに貼ったガーゼが気になるのか、やたらとこめかみに伸びる手をそのたびにはたき落としながら。言葉のやり取りがない分ネルの思考だけがどんどん進む。
――にやついて、そうして笑っているから。いつも笑っているから。
――軽薄に笑っているから。
その軽薄さが気に食わないのか、鼻で笑われているような感じがして腹が立つのか、感情が読めないのが嫌なのか。
どれなのかそれ意外なのか、よく分からない。すべて当てはまるような気もするし、全部違うような気もする。ただ、バカ話をして笑っているときのあの笑顔は嫌いじゃないのに、こうしてネルを見てにやつかれると、なんだか激しく腹が立つ。
隠密として、国の重鎮として。今まで数え切れないほどの人間に会ってきた。中には食えない人間もいたし、特に自国シーハーツを含めて地位が上がれば上がるほど人間の腹黒さはいや増していくから。それに比例するように「食えないやつ」も増えるし、何を考えているか最後まで分からない人間も、醜いだけの心根が透けて見えてお世辞にも関わり合いになりたくない人間もいる。
けれどクリフはそういう人種とも違って。
――ただ、読みにくくて。あの笑みを見ると腹が立って。
「――なあ、ネル?」
「なんだい」
声が硬い。けれど呼ばれたからにはと顔を上げれば、例の笑みを貼り付けたクリフがいて。かあっと頭に血が上ったネルが何か言うよりも早く、
いきなりクリフが雰囲気ごと別人になった。
相変わらず彼の口元に笑みは浮かんでいて、けれど。
いつもの陽気さの変わりに刺すような寒気がするし、ざあっと立った鳥肌がなかなか収まらない。目をそらしたいのに身体全体まるで動かせないし、不吉な予感がネルの頭の中で激しい警鐘を鳴らして、
――けれど、動けない。
ただ、笑みの種類を変えただけなのに。たかがその笑み一発で蛇ににらまれたかえるよろしく身体の自由がうばわれる。
「……っ」
冷たくて粘っこい汗がこめかみを伝って、それが気持ち悪い。
――たかが笑みひとつ。今も目の前にいる男は……けれどバケモノなのかもしれない。
内心の失礼な感想を知らないで、「バケモノ」が、
「……な?」
またいつもの軽薄な笑みに戻る、圧迫感が瞬時にかき消える。知らず止めていた息に胸が苦しくなって、ネルは激しく呼吸をくり返す。
……不快の原因は、理解できないからだろうか。
瞬きさえ凍りついていたのか、なんだか乾いた感じがする目にあわてて瞬きをくり返しながら。肩で呼吸をくり返しながら。
最後の包帯を、すっかりゆるんでしまったそれをあわてて巻き直しながら、ネルは、
「――真面目な顔すると、何でかみんな身構えんだよなー。失礼な話だぜ。ま、おもっくるしいかたっくるしいのはオレに合わねえしよ」
「バカ言うんじゃないよっ!」
ネルは、ではこの笑みはクリフなりの気づかいなのかと半瞬納得しかけて、いいや違うとすぐさま否定した。
隠密として、国の重鎮として。今まで数え切れないほどの人間に会ってきたけれど。
――あいつほど読みにくいやつは、他にいない。
――あいつほど、底の読めないやつはいない。
いまだ混乱が続いているネルを、いつものあのしまりのない笑みが見ている。
今のネルにはそれに気付く余裕がない。
あのときのあの笑みが、
皮肉いっぱいのシニカルすぎる笑みが。
――心全部見透かされる気がして、ただひたすら、怖かった。
