これだけ幸せそうに食べてもらえたなら。
作った方も、本望だけれど。
「…………」
ネルは思わずそれから目をそらした。
それ。
ホワイトシチュー。
……になるはずだった、どろりとした変の色の物体。火からおろした鍋にわだかまる、薄い煙と不吉な焦げ臭さ。かき混ぜてみればやたらと粘度が高くて、おたまの柄がへし折れそうな抵抗感がある。鍋の壁やら底やらにおたまが当たったら、きっといい感じの凹凸を感じるだろう。それは回避してぐるりとひと混ぜして、覚悟を決めて義務感だけで含んでみれば。思った以上の圧倒的な焦げ臭さと、隠し切れていない隠し味のような苦さ。舌ざわりがざりざりしていて、ひたすら塩気が強い。
味以前に、人間の食べ物とは思えない。
――材料がもったいないけれど、これはどうがんばっても食べられるようには、
「――珍しいわね、ネルが料理に失敗するなんて」
「……マリア……」
脇から上がった、あくまでも淡々とした事実の指摘に。ネルはがっくりと肩を落とした。
少し、考えごとをしていた。
九割方でき上がって、あとは煮詰めて仕上げの味付けをすれば終わりのシチューにふたをして、サラダ用にキャベツをきざみながら少しだけ考えごとを。そのまま考えごとに没頭して、はっと気が付いたときには三個目のキャベツがもう少しで刻み終わるところで、きざみ終わったキャベツは文字通り山のようになっていて。そして、
煮詰めすぎたシチューはこんな物体になっていた。
キャベツはまだいい。今は生でかさがあるわけで、火を通せばきっとずいぶん減るはずだ。まあどうとでもやりようがある。けれどこの、鍋に入った物体は。
――どうしたらいいのかね。
こんなことははじめてで、ネルは深く息を吐いた。
いつもなら、こんな失敗はしない。たとえ考えごとをしていて上の空だったとしても、ふきこぼれる音や焦げ臭さで、ここまで被害が進行する前に気付く。その時点で気付いたなら、もっと誤魔化せるはずだったのに。
――どうやら、自分を過信していたようで。
火からおろしてもうかなり経つのに、いまだふつふつと地獄の釜でものぞく感じに煮立っている表面。蓄えた熱できっとダメージは進行しているはずで、怖くてネルには再度中身を確認する勇気が出ない。まごつけばさらにどうしようもなくなると分かっているのに、これが冷えたところで――ああ、早いところおたまを取り出しておかないと変な風に固まるのかもしれない。
一から十までネルが作って、その材料も作り方の手順も全部空で言うことができるけれど。
こんな風になってしまった物体、ネルの今までの経験ではまるきり無知だから。たとえ何が起こっても、ありえそうな気がする。怖い。
「……どうした? メシは??」
「…………今作り直してる。大丈夫だよ、そんなに待たせないようにすぐに、」
ひょい、と横手から顔が生えて、ネルはびくりと跳ねた。触れたりはしないけれど、近い近い距離に。ある意味では元凶、「考えごと」の中身、クリフがいて。
予想していなかった近距離に心臓が跳ねている。
心臓が騒ぐのは、予想もしなかったこの距離に動揺しているからだ。
どきどきする胸を押さえて自分を誤魔化すように思うのに、そんなネルに気付かないように、なぜかおもしろそうに鍋を眺めていたクリフが藍い目を上げた。
「これは?」
「……失敗作。まずいシチュー以下だよ、残飯にもならない」
――ダメージ受けるから、だからこれはなかったことにしとくれ。
そう続けようとしたネルは、けれど無造作に伸びてきた腕に今度こそびっくりと跳ねる。いつもながら思い切りの良い動きで、風が生まれて彼女の二の腕を撫でる。
「く、クリフ!」
「ん?」
腕は彼女に触れなかったけれど、迷うことなく鍋のふたをつまんでいた。止めようとする彼女は混乱していて、止めるだけの余裕が生まれる前にあっさりふたが外される。
反射的にネルは顔を背けていて。
何があったか見ていなくて混乱は続いて気配も読めなくて、
「……腹減ってたんだよ」
「クリフ!?」
もごもごとした声、のそりと動いてごそごそやっている音。
――見ていなくても気配を読めなくても、何をしているかが分かる。嫌な予感レベルで、分かってしまう。
びくびくしながら片目でうかがえば。
一番見たくなかった風景がそこに広がっていて。
いつだって、何だって実においしそうに食べるから。
だったらクリフが本当に好きな料理は何だろうと思っていた。自力で作っている料理といつもの言動から、なんとか推理してみようと思った。これだ! という料理が浮かんだなら。今度それを献立に入れてみようと思った。
それほど深い意味があったわけではない、ただクリフの喜ぶ顔が見たくて。
それ以上の意味をネルは把握していなくて、把握するべきではないと何かが主張していて。
――でも、間違ってもこんなものを食べさせたいわけではなかった。
――作った当人でさえ「食べもの」と認めることができないものを食べさせて、がっかりした顔や眉を寄せた顔や苦い顔で舌を出している顔なんて、
――絶対に、見たくなかった。
「クリフ、あんたね! 人の話を聞きな、それは失敗作で捨てようと思ってたんだよ!!」
湯気が上がるほどだから、さすがに抱え込んではいないものの。大鍋に近寄って鼻歌まじりに、おたまをスプーン代わりにがっついている男。見ていて気持ちが良くなる勢いで鍋の中身が減っていって、「たいらげる」の表現はこういうときに使うのかもしれない。
とりあえず、失敗したとかまずいとかでも手を付けたからにはとか、そういったネルの恐れていた顔はなくて。
なんだか嬉しそうに鍋に取り付いているわけだけれど。
けれどやはり、鍋の中身を知っている身では、それを素直に喜ぶことができない。
「クリフ……!」
いっそ力ずくでおたまをはなさせようとしたけれど、力でクリフに叶うはずもなかった。おたまも放さないし大鍋から離れないしネルの制止をまるで聞かない。機嫌の良い鼻歌は続いて、鍋の中身が減る勢いは衰えない。
静止の声どころか、ネルの存在そのものがまるで無視されているようで。
むかむかしたネルがとうとうこぶしを作って殴りかかると、ぱしっと右ストレートが受け止められる。
「――なに怒ってんだよ」
「人の食べるものじゃないって言ってんだろ! 無視するんじゃないよ!!」
「食べれるぜ、うん、美味い。なんだかじゃりじゃりするけど、面白いじゃねえかこの食感」
「……それは楽しむところじゃないよ……!」
受け止められたこぶしがそのまま放してもらえないので、中途半端な姿勢でネルはうめく。別に泣くつもりなんかないのに、それほど感情を乱されたのか、なんだか視界がぼやける。
――哀しいわけじゃない。
――悔しい。
――悔しい悔しい悔しい、
――なんだか無性に悔しい……!
自分で自分がどんな顔をしているのか分からなくて。分からない顔で精いっぱいクリフをにらめば、彼女の涙にびっくりしたのかこぶしをとらえる手がなくなる。なくなって、なんだか決まり悪そうな顔になって、――行儀悪くべろりとおたまをなめて、
多分その勢いで自分の唇をなめる、それがなんだか悪ガキに見える。
「――人の話を、最後まで聞きな……!」
「……腹ぁ減ってたんだよ」
「だからって!!」
がらぁん!
とうとう空になった鍋に、クリフが放り出したおたまが落ちた。勢いでぐるっと一回転して、ネルは見るとはなしにそんな光景を見て、
「こんなもの、」
「でもよ、美味かったんだぜ?」
――味オンチとか言われりゃそれまでだがよ、うまいと思ったから食ったんだよ。
あれだけ幸せそうに食べてもらえたなら。
作った方も、本望だけれど。
――まともに作った自信作だけを、
食べてもらいたいのだと、ネルはそう思う。
その奥にある気持ちには気付かないネルは、
ただただどこまでも、そんなことを思う。
