――我慢する必要はない。
――無理にこらえたりしなくていい。
いつもはおちゃらけた不良中年の、これ以上ない真面目な声に。不覚にも頭が、くらくらした。
「大丈夫ですか、ネルさん」
青髪の青年がいかにも心配そうに声をかけてきて、戦闘直後、ぼうっと注意を散開させていたネルはただ首を振った。逆手に握り締めていた短刀を、血をはらって鞘に戻して。ただじっと見つめてくる彼に、微笑んでみせる。
「平気だよ、なんともない。……さあ、先を急ぐよ」
くるりとアリアスの方を向いたら、たったその程度の動きに血が追い付いてこなくて、めまいがした。瞬時に視界が真っ暗になってどくんと血の巡る音が耳音に聞こえて、けれどなんでもない風を装う。すっと目的地の方向を、指差してみせる。
「アリアスは、もう少し先さ。この調子なら夕方……夜になったくらいになるかな、村に入るのは。でも、まあ多少無理したとしても屋根のあるところで休みたいだろう?」
よどみなく流れる自分の声が、少しずつ近くなる。こもったような声は次第にいつもどおりに、暗かった視界もゆるゆるもどっていって、ネルは口元の微笑を消さない。
――大丈夫。まだ、気付かれないように振舞うことができる。
疲れているのではないか、と訊ねられたならうなずいていたかもしれない。疲れていないわけがない、体力はもうだいぶ底が見えている。嘘までは吐きたくない。
けれど青年は、大丈夫か、と訊ねてきたから。
だからネルは微笑んでみせた。今までの戦闘中にだいぶ血を流して、顔色は悪かったかもしれないけれど。まだまだ平気でいられると思ったから。
でも、
……でも、
「でも、ネルさ……」
さらに彼が何かを言おうとしたとき、今までネルの背後にいた金髪の大男がのっそりと動く。のっそりゆっくり、しかし流れるように。心配顔の青年に向かって歩いて、
――歩いていたはずだ、ネルの脇を通って。
くらりとネルの視界が揺れた。だいぶ血が減ったおかげで体力が少ないおかげで、冷えていた肌、二の腕にふと熱いものが触れる。大きなくせに、こんなときだけ静かな気配が。なぜかすぐそばにある。遠くならない、離れない。
……え?
「フェイト、お前の方が疲れたんだろ。休憩にしようぜ。「急ぐ」と「休む」は違うしな」
ひょいとすくめられる分厚い肩、精悍に整った顔立ち、若いような年老いたような、よく分からない深い深い藍い瞳と雰囲気。さらりと風に揺れた金髪が頬に触れて、呆然としていたネルははっと我に返った。
「ちょっ……な、何するんだいクリフあんた、」
上ずった、掠れた声が悔しい。腰を抱きかかえられて、身長差から地に足が付いていないのがなんだか不安を煽る。胴に回った太い腕が熱い肌が、けれどその熱が冷えた今のネルにはほっとする心地良さを感じさせて。
ネルは首を振る。激しく揺れた視界に脳みそに目を回しそうになりながら、叫ぶ。
「あんた……!」
「おい馬鹿止めろお前何するんだ馬鹿!!」
「へーへー、嫌なら振りはらえよそれだけの体力ない癖に息がるな」
会話、間近い距離で聞こえた声。ぱちくりと瞬けば、なんだか荷物のように胴を抱えられた青年がクリフの身体の向こうに見える。よくよく見れば、それは今のネルと大差ないような状態で、
――どうやら、今のネルは女扱いされていない、その証明のようで、
叫ぼうとした内容が頭の中から消えていく。呆然の霞が広がって、混乱して何も考えられない。
……そういえば体調が悪いらしい青年を気遣うことを忘れていた。
……自分のことだけで手いっぱいだった。
……アーリグリフに捕まった部下たちが、あの二人の顔が目の前をちらついて、それを悟られないようにとそこにばかり神経が集中した。
不安が、疲労が。どれだけ視野を狭めていたのか。
ずしーんと落ち込むネルと元気に暴れながらけれど逃げ出せない青年と、二人を抱えてクリフはなにごともないように歩く。ベクレル山道、岩だらけで生物の気配が薄い道を少し戻って、岩がうまいこと風を防ぐ場所に、きっと事前に目星をつけておいたのだろうそこへ二人を運ぶ。
「はなせ!」
「へいへい」
乱暴に放り出されて、青年の抗議の声。自己嫌悪から浮上できないネルの耳に響く、低く力強く打つ音。
……?
青年は放り出されて、けれどネルはそのままクリフに抱えられていて、彼のぶっとい左腕に抱えられていて。きっと体勢的に、彼女の頭がクリフの心臓に近くて、
どくん、どくん、どくん、
規則正しく力強く、ネルの耳にクリフの鼓動が聞こえる。
ひとが、生きている音が聞こえる。
なにごとにも動じない、遠い遠い昔に聞いた潮騒の音がする。それ以外の音が急激に遠さかって、一緒に意識まで遠ざかっていく。
――体力が限界に達したのか。
頭の隅が冷静な声。
最後にネルが感じたのは、青年のあわてまくった狼狽した気配と、困ったような苦笑するようなため息。
――さっき無理して村に急がなくて、正解だったかもしれないね。
頭の隅がどこまでも冷静に告げて、
――無理をしていない、なんて言えない。
敵国アーリグリフに忍び込んだとき、部下たちがいたとはいえ不安だった。不安をおして城下地下牢にまで侵入して、グリーテンの技術者さえ味方につければ、という希望は自分でもとても儚かった。
薄い希望に情けなくしがみついて、不自然な自分に気付きながら見ないふりをして、精神的疲労、肉体的疲労はそんなぎりぎりの精神さえどんどん追い込んで。
この二人を味方に引き込めば、という希望。
正体不明の人間に頼らなければならない自分の不甲斐なさ。
遠く敵国で、たった二人の部下をみすみす敵の手に渡してしまった自己嫌悪。
任務第一の非情な態度をとりながら、甘い自分は結局部下たちを見捨てられない。
ぐるぐるとネルの思考が回る。答えの見つからない思考は、ただ彼女をどんどん落ち込ませる。
――無理をしていない、なんて言えない。
山ほど不安を抱えながら、同時に儚い希望を、国民の希望を全部背負っている。男女差は悔しいことにこと体力面に大きく影響して、体力不足はさらに彼女を不安に突き落とす。技術力をアテにしながら、けれど結局正体を掴ませない二人を実はネルはなかなか信用できない。
――無理をしていない、なんて言えない。
――だけど、無理をしているなんて言えるはずもない。
「……ったく、なんでオレのまわりのやつはこうも揃いも揃って意地っ張りかね」
「……?」
きっと、夢だと思う。夢の中にクリフの声が聞こえる。
深く複雑に息を吐いている。
「我慢する必要がどこにある。人それぞれ、得意不得意があって当然じゃねえか。なんで完璧を目指すんだ? なんで全部に関して完璧であろうとするんだ」
いつもは、ネルの知っているクリフはどこまでも軽くて不真面目で。歳を重ねて知識を経験を身につけたけれど、結局は手に負えない少年そのものなのに。どうしようもなく手のかかる、かさばるばかりの中年のくせに。
こんな、歳相応の真面目な顔をしたクリフなんか知らない。
ネルの意識が向いていることに気付いているのかいないのか、たぶん夢の中、クリフが深く息を吐く。
「強がるな、無理を重ねるな。……分かってんのか、ネル?」
ぶっとい指が予想外に優しく彼女の頬に触れる。疲労のせいかそれ以外の何かか、指先一本動かせないネルは何も反応できない。ただ意識だけが覚醒してクリフの声を気配を拾っている。
「迷惑かけてんのはこっちで、お前が気後れする必要はねえんだよ。技術提供はフェイトに任せたが、旅の道連れなんだ、せめて少し頼ってくれてもバチはあたらねえぜ」
動けないネルに遠慮がちに触れて、彼の意識がやわらかくなって、
「……おせっかいだって我慢してるけどな、そのうち限界がきたらどうしてくれんだ」
多分、クリフが笑ったのだと思った。
――我慢する必要はない。
――無理にこらえたりしなくていい。
いつもはおちゃらけた不良中年の、これ以上ない真面目な声に。不覚にも頭が、くらくらした。くらくらする頭がくらくらのあまり最後の栓を引き抜いて、
ぽろり、ネルの頬を涙が伝う。
きっと夢だ、夢に違いない、動けないネルの世界の中で。
彼女の頬に静かに流れる、どんな意味かも分からない涙を。
大きな気配が、やわらかく拭い去っていった。
