手を伸ばしたら。
すぐにでも、触れられそうで。
「おーい、ネル!!」
名前を呼ばれて、雑踏の中遠慮なしの大声で呼ばれて。あの男に羞恥心はないのかと、高名なクリムゾンブレイドの名前に集中する視線の中、ネルは大きく息を吐いた。とたんになんだか密度が高くなった彼女の周囲の人ごみをかきわけて、まわりの人間より確実に頭ひとつ分でかい彼は、ネルの前までたどり着くとにかっと笑いかけてくる。
「――散歩か?」
「そんなわけあるかっ!」
冗談なのか本気なのか、こういったときの彼はよく分からない。普段は計算した軽薄さをそこかしこに感じるのに、なぜかこういったときは本気でボケる確率がけっこう高い。
だから、そんなクリフだから。すでに慣れっこになっていたネルはとりあえず力いっぱいツッコミを入れておいて、
「荷物持ちに使われてくれるつもりなら、付き合いな」
「美人のお誘いなら、他の用事ほったらかしてでも!!」
「……ミラージュにあることないこと言っとくよ」
「いや、すまん。オレが悪かった」
そんな馬鹿げた会話の末、二人は人波に合わせてゆっくり歩き出す。
――それをふと思ってしまったのは、一体何がきっかけだったのだろう。
天気が良くて穏やかな風が吹いていて、その風に前髪が目に入ったのか入りかけたのか。ああ、そうだ。なんだかうっとおしそうに、クリフが前髪をかき上げたときだ。
普段見ない、その意図がないから一瞬の、いつもと違う髪形。それが何気なく見えて、なんだか見入ってしまって、だから思ったのだ。
……触れてみたい。
その風になびく金の髪に、それを無造作に梳いた大きな手に。手の続く腕、たくましい、以外の形容詞の見当たらない体躯、雰囲気さえやんちゃな、年甲斐のないクリフのどこかに。どこでもいい、クリフのどこかに、
――なぜだか触れてみたいと思った。
単なる好奇心、それ以上の気持ちはありえない。ただただ、触れてみたくて。自分とは違う生きものに、触れて確かめてみたくて。見た目どおりなのか見たままなのか、それとも見た目に反しているのか。
この手で、触れてみたくて。
そんな自分に気が付いた瞬間、ネルはいかにも馬鹿らしくなってわざとらしく息を吐く。
「なんだ? 疲れでもたまってんのか??」
「違うよ。……というかまだ朝じゃないか、今から疲れていて今日一日どうやって乗り切るつもりだい。
ただ――シーハーツならまだしも、アーリグリフではあんまり大声で呼ぶんじゃないよ」
「ん?」
「……いや、いい。あんたに呼ばれるような場所に、あたしがいなければすむ話さ」
「淋しいこと言うなあ。……たとえ乱闘になったところで、お前ひとりくらい助け出すなんてわけねえんだがよ」
「むやみやたらと騒ぎ起こしたくないんだよ!」
まるで思ってもみなかった、とっさの嘘は。けれどそれなりに説得力があったようで、そしてさらに頭が痛くなる答えが返ってきた。
――本当に、何でまた。
「あんた、それでも自称保護者かい!?」
――あたしは、こんな男に、
「それ言われるとつれえよなあ。
わーったわーった。自重しとけば良いんだろうが……アーリグリフでは」
「できるなら、ここでもね。
……なんでか人が寄ってくるから」
――自覚したなら、なおさらに。
――なぜこんなにも、触れてみたいのだろう。
大袈裟に嘆くネルに、冗談だとなんだかご機嫌に笑うクリフ。
――これは、からかわれているのだろうか。むしろ怒った方がいいのだろうか。
気が付けば分裂していたネルの頭が、そのひとつがそんなことをぼやいて。
――殴りがかったら、その弾みに触れられるだろうか。
別の頭が、そんなことを考える。
出会ったのは、アーリグリフの地下牢だった。
今思い返せばいっそ恥ずかしいくらい、彼を、彼らを必死にシーハーツに引き込もうとしていた。
今と変わらないのらりくらりで、彼は決定権すべてを一緒にいた青髪の青年に投げ渡していて、
無責任なのか鷹揚なのか、その時のネルには、今思い返しているネルにも。彼の本心は読みきれない。
――触れれば、何か分かるだろうか。
思って、その馬鹿らしさに今度は気付かれないように透明の息を吐く。
――そんなこと、あるはずがない。
――たかが触れただけで人の心が読めるなら、彼女たち隠密は存在の意味がない。
――そんな、おとぎ話の中にしかない能力。少なくともネルは持っていない。
――あまり、持ちたいとも思わない。
そんなことをつらつら考えて、けれどネルの心のひとつはどこかにすきがないかとずっと彼を意識していて。ターゲットに気付かれないように意識するのは、職業柄かなりの自負があって。けれどなぜそこまでして触れたいのか、それが自分でも分からなくて。
隙だらけのようでいて、その実髪一本分の隙さえない男は機嫌よく鼻歌まで歌っている。
なんだかごった返している周囲に気を配って、気を配りながらそんなクリフの隙を探して、なんとか触れるだけの口実とタイミングを探して。その一方で馬鹿なことをと止める心があって、どうしてここまで触れたいのか首をひねってもいて。
何度もタイミングを計って、三回ほどチャレンジしてみて、結局は目標を達成できずに。
――触れてみたい、は、クリフの手に触れたい、にいつの間にか変わっていて。
手を伸ばしたらすぐにでも、触れられそうなのに。そう思うのに。
いつまで経っても、そのきっかけをつかむことができなくて。
まごつくネルが、珍しく周囲への注意を散漫にした。最初はクリムゾンブレイド効果で、そのころには単に市へ向かうためにごった返した周囲の波に、なんだか乗り切ることができなかった。
どん、と多分故意ではない、大したことのない衝撃に。
……もはや、注意すべてが一点に集中したネルは気付くことができなくて。
「……と、あっぶねえなあ」
「――――!!??」
ウェストに何かが巻き付いていた。至近距離、には少し遠い、けれどとても近い距離に今まで隙をつかもうと、凝視していたものがあった。
驚きで見開いた目を上に向ければ、
なんだか笑っている深く青い瞳があって。
「手でもつないどくか? これではぐれたらかなり間抜けだろう」
「……ぁ、」
分かっているのかいないのか、ただ強いまなざし。それに今自分だけが映っていると思って、それで頬が背中が身体中が熱くなって。いつの間にか上がっていた心拍数、今はどっきんどっきん心臓の音がきっとクリフにも届いている。きっとこれ以上ないほど隠密らしくなく、頬が顔が、たぶん首筋まで真っ赤に染まっている。
居心地が悪いのに、なんだか、なんだか……!
「は、はなしなこの馬鹿男!!」
ふるえる思考は、果たして声になっていたのかどうか。
クリフの胸に飛び込んだ形のネルは、半分以上まるで包み込まれたようなネルは。
ネルの思考は。
――ただ、今。白一色に塗りつぶされている。
