――そんなに急がなくても良いのに。
思う。
――彼女がひとところにじっと止まっているのは、もしかしたら寝るときだけなのかもしれない。
ペターニの宿屋の二階、彼女の権限を最大発揮して取った部屋の窓から。軽い身のこなしで賑わう人ごみを縫う細い後ろ姿に、クリフはふとそんなことを思った。
一緒に旅をしているときのあの気さくさからは、何かバカをやればそのことごとくに遠慮なく的確なツッコミを入れてくるネルからは、実のところ信じられないけれど。
彼女は隠密で、クリムゾンブレイドでこの国の重鎮で。今現在は彼らパーティをすべてにおいて最優先しているけれど、自由時間ともなれば毎回どことも知れないあちこちに走り回っている。
シーハーツの領内にいればもちろん、アーリグリフにいても。あるいはサーフェリオに行ってさえ。
事前にしっかりした目的のある約束を取り付けていないと、彼女はあっという間に姿を消す。そしてプライベートではなくてあくまで公務で、自由時間が終わるぎりぎりまで帰ってこない。
「そんなに大事かねえ、シゴトってのは?」
「時と場合と立場と信念によるわね。……ちなみにクリフはサボりすぎよ」
「うお、……びっくりさせんなよマリア」
「驚いてなんかいないくせに、わざとらしい芝居しないで」
ひとりごとにいきなり返事があって、そういえば気配は感じ取っていたけれど少しだけ本当に驚いていたら。いつの間にか背後に立っていた養女が大きく息を吐いて、小さな記憶端子を投げてきた。
「? 何だこりゃ」
「仕事よ、昨日が締め切りだった、ね。マリエッタに泣き付かれたわ。今日中に――今日のニイサンマルマルまでに。ちゃんと目を通してディプロに連絡すること」
「こんなもん別にこんな風にわざわざ渡さなくても、」
「理由なんか聞く気ないわよ。サボっていたのは事実でしょう。ネルを見習ってたまには働きなさい」
言うだけ言って、びしっと指まで突き付けて。きつく命令すると、それきり養女は彼にあっさり背をむけてどこかに行ってしまった。
本人も何か仕事を抱えているのかもしれない。
ネルに負けず劣らず仕事で多忙な養女に、仕事で多忙になりたがる養女にぽりぽり頬を掻いてみて。
少しの間逃げ道を探していた彼は、やがて大きな息を吐くととっくに締め切りを過ぎている「仕事」にしぶしぶ手を付けることにした。
――そんなに急がなくても良いのに。
脳ミソの八割ほどを仕事に割り振って、残りの脳ミソでクリフは思う。
――いつも走っていなくても、たまにはのんびり歩いても。立ち止まっても。良いじゃねえか。
彼が本気を出せはそれはあっという間に片付いて、約束の時間より一分前にディプロにそれが届くように通信機に細工をしながら。クリフの脳ミソの片隅は、思う。
そうしなければ間に合わない仕事なら、最初から誰かに割り振っておけばいい。何も自分ひとりで全部全部背負い込んで、山ほどある重荷を自分だけで消化しようとしなくても良いではないかと、心底思う。
軽くなった荷物分、別に遊び呆けるわけではないだろう。
今までのネルを見ていれば、そんなことすぐに分かる。だからそんな多忙な彼女に頼られたなら、誰もが喜んで手を貸すだろうのに。
シーハーツ国内のことはどうしようもないけれど、クリフだって彼が可能なことをネルに頼まれたなら、きっと二つ返事で了解する。それがどんなに面倒なことでも、喜んでこなしてやりたいと思う。面倒にかかりっきりになっている間、お前は休んでいろと言ってやりたいと思う。
――他にやることはないか? なんだったらまとめて言っとけよ、ついでにやっつけるからよ。
そんな風に笑ってみせたい。
「――無茶して身体壊したら、元も子もねえだろうが」
「何がだい??」
「うお、……びっくりするじゃねえかよネル」
「本当は驚いてないくせに、いちいち大袈裟なこと言うんじゃないよ」
ひとりごとにいきなり返事があって、そういえば気配は感じ取っていたけれど少しだけ本当に驚いていたら。いつの間にか背後に立っていた当のネルが大きく息を吐いて、いつものようにやれやれと腰に手を当てる。
「――んで、どうした?」
「そういえば買出しを頼まれてたんだよ。量がちょっと多そうだから、あんたを荷物持ちにしろってフェイトが言ったんだ。
……別に、忙しくて無理ならそれで良いけどさ」
「ん?
ああ、これはもう終わってるから気にしなくても良いぜ。んで、どこ行くんだ??」
彼女にはきっとひたすら珍しいだろう、今までいじっていたそれのフタをぱたんと閉める。大きく肩をすくめた彼女は、さっさと部屋から出て行くから。クリフはただ、そのあとを追う。
「……おい、ネル」
「回復系のアイテムがほとんど底突いてるから、そのへんかな。あとはもう使っていない防具を売っ払いたい」
「オッケー。ちっと待っててくれよ、防具持ってくっからよ」
「別に、そんなのあたしがやるから良いさ。あんたこそここで待ってな。すぐ戻って来るからさ」
仕事の合間にそれを思い出して、もしくはとりあえずの仕事をやっつけたあとなのか。
戻ってきた彼女がまた鮮やかに身を翻そうとしたのを、クリフは手を上げて止めた。少しむっとするネルに、軽いウィンクをひとつ。
「オレがしたいって言ってんだからよ、黙って待っててくれよ。
――シーハーツのことだと分かんねえことが多いから二の足踏むけどよ。オレにできることなら、何だって遠慮なく言ってくれていいんだぜ?」
一瞬呆けて、すぐにきっと眉を吊り上げる彼女の口を立てた人差し指でそっと遮って、
「たまにはのんびりしろよ。バチなんて当たらねえよ。
いつだってずっと早足だと、疲れるだろ?」
「最初は大変だったけど、もう慣れたよ。今じゃ、何もしない方が落ち着かないんだ」
「あー、それは重症だな。ためしに休んどけ、どうせ大した手間じゃねえ」
むくれたネルが彼の手を外すから。今度は簡単にはなしてたまるかと、壁と腕で彼女を囲い込む。
「……あんたは!」
きっと今までずっとずっと仕事一辺倒で、本人はそれが「普通」で。身分がどうとかもあるかもしれないけれど、それよりも仕事の多忙さできっと恋を知らない彼女が。
そう思えば、ひどくいとしい。
休ませてやりたい、休んでほしい。仕事はもちろん好きではないけれど、彼女が休むためにできることなら、何だってしてやりたい。
むしろ、させてほしい。
「何トチ狂ってんだい、はなしな!」
「別に触れてねえだろ?」
「そういう問題じゃないよ!! 大体、こんなとこ……いつ人が来るか! それにあたしはあんたほど暇じゃないんだ!!」
「――だから、暇するためにオレが動くからよ」
「そんなの、」
――そんなに急がなくても良いのに。
――急がなくても、すべてはどうとでもなるのに。
――そのためなら、どんな無茶をしてもお前のそばにずっといてやるのに。
――お前のそばに、ずっといたいのに。
「無茶してお前が倒れたら、オレが嬉しくねえんだよ」
――ネルの意思なら、それを尊重したいと思うのに。
――同じ心が、彼女の苦労する姿を、無理する姿を見たくないと思っている。
「そんなの!」
「――早足も良いけどよ、たまには歩いてみろよ。立ち止まってみろよ。
いつもは見えないものが、見えるかもしれねえぜ?」
にやりと笑って彼女の耳元に、噛み付くような至近距離で低くささやけば。
すぐそこのなめらかな肌に、
――愛らしいほのかな朱が、ぽっと灯る。
