「マリアさんネルさんっ!」
ソフィアがものすごい勢いで駆け寄ってきた。瞳をうるうるさせてがっしとマリアの手を握って、いつの間にか逆の手でネルの服を掴まえていた。
「お願いです聞いてください聞いてくれますよねねえねえ!?」
「……あの、」
「……ソフィア……?」
マリアとネルは顔を見合わせると、次の瞬間ぎくりと凍り付いた。
感極まったようにソフィアのうるうるの瞳から、
ぼろぼろぼろと、涙が零れ落ちた。
その日夕刻。冒険でよれよれになった一行は、商業の町ペターニに入るとまず宿に向かった。男部屋と女部屋、いつもどおり予約がぎっしりの宿になんとか二つ部屋を確保する。マリアとネルはまず荷物を下ろそうとまっすぐに部屋に向かって、女部屋の最後の一人、ソフィアだけはどこかに姿を消していた。
「……夕食までもう少し時間があるわね……ネル、ちょっとお茶でも飲まない?」
「そうだね。せっかくだから何か菓子でも軽く食べようか。さすがにちょっと疲れたよ、甘いもの食べてのんびりしたい」
「そうね」
簡単に旅荷を広げたマリアが、少し服をゆるめるとほっと息を吐いた。手持ちの武器を確認していたネルは、マリアに返事をするとざっとそれらをしまって首を回す。
「何か持ってたっけ? 何だったらルームサービスでも頼もうか。奢るよ」
「嬉しいわ。じゃあ、甘えさせてちょうだい」
部屋備え付けのベルを鳴らせば、廊下に待機していたメイドがすぐさま顔を出した。軽くお茶の準備をネルが命じて、マリアはそんな「異文化」に目を細める。
――そこあたりまでは、いつもどおりだったけれど。
言いつけられたメイドが廊下に出ようとしたとき。入れ違いに、ものすごい勢いで入ってきた人影がひとつ。
「……と、とにかく落ち着きなさいソフィア。聞いてあげるから」
「誰も逃げやしないから、ちょっと手を離してくれないかい? 服がのびちまう」
「う、……ぐすっ」
どこかに行っていたはずの少女は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら素直に手を離した。べそべそと涙をこぼすソフィアをとりあえずテーブルに着かせると、タイミングを見計らっていたようにメイドがお茶会用品一式を持って戻ってくる。ばたばたとそれらをセッティングし終わったころには、なんとかソフィアも一時的なパニックから回復していたようで、
「で、何があったのよ?」
いつもどおりの、どこか冷たいマリアの声にこくりとうなずいた。
「……フェイトが……っ」
――ああ、またか。
顔に出さずに内心うんざりしながら、マリアは一口勾茶をすすった。季節のフルーツのタルトを一口、微妙に表情のないネルを見るに、やはり心境は同じようなものだろう。
「フェイトが……、邪魔だ、って……!」
たったそれだけでまたもやじわりと目が潤んで、先ほどぬぐった頬にまたもや涙がこぼれる。大粒の涙をこぼしながら、それでも大泣きというには声のないソフィアの。丸くなった背をぽんぽんと優しくたたいて、ネルがとりあえずこれを飲んで落ち着けと、たっぷりとミルクを入れた勾茶のカップを差し出した。
「前後は分からないけど、いつものことよ。いくら邪険にしたところで、フェイトが本気であなたを嫌うわけないじゃない」
「でも!!」
うつむいていた顔が、がばっと上がった。でも、とわななく口元、新たな涙がさらに頬を伝って、私が泣かせたわけじゃないわよとマリアが罪悪感を覚える。
――だって、本当にいつものことではないか。
カップを口に運んで、気まずい気持ちを切り替えようとする。
――いつものことだ。こと女性にはそれなりに心細やかに気を使うフェイトが、しかしどうしても男ならではの無神経さを発揮することも。そういう些細なことでソフィアが大袈裟に騒いで、そのたびに仲間たちを巻き込むことも。
そのたびにこうして愚痴られて、けれどそれが嫌ではないマリア自身も。
でも、と何度もくり返しながら、ソフィアが再びうつむいた。ぽろり、とりあえず落ち着いた涙は小粒になって、ふっくらとした頬を伝う。ハンカチを手渡してやりながら、ネルはどうしようかと首をかしげる。
何をどう言おうと、存外頑固なソフィアは自分で納得しないといつまでもぐずぐずと引きずる。そうかと思えばなぜかいきなり納得して、いきなり笑顔を浮かべたりする。
感情がすぐに表情に出るから、少女の考えることは大体分かる。
……今は。フェイトに嫌われたのではないかと、ただひたすらに怯えている。
「……あたしもね、マリアの言う通りだと思う。勢いだよ。いちいち傷付いてたら、身体がいくつあっても足りやしない」
だから気にするな、と生クリームをたっぷり添えたプレーンのシフォンケーキを押しやってネルはにこりと笑いかけた。
「甘いものでも食べてさ、気分転換しなよ。何か悪いことしたなら謝れば良いし、協力を惜しんだりしないから」
幼馴染、と聞いた。すっかり熟年夫婦のような会話を交わす二人は、それでもどうやら恋人同士ではないらしい。しかしソフィアがフェイトを想っていることは明らかで、小さな恋を応援してやりたいと思う。
いきなりわめいては周囲を巻き込む少女が、ネルは嫌いではない。たとえどんなに迷惑をかけられたところで、嫌うことはできないと思う。
ストレートに感情を表して、素直に泣いて笑って怒って、そんなことができないネルには。いつの間にかできなくなっていたネルには。うらやましくてまぶしくて微笑ましくて、だからネルはソフィアを嫌うことができない。
「大丈夫だよ、あんたはいい子だ。フェイトが悪いなら、謝るまで待ちゃいいしさ」
「焦ったって意味がないじゃない」
マリアと一緒になって、最後の涙をふき取るソフィアに微笑む。
些細なことに一喜一憂するソフィアが、可愛い、と思う。
「――で、一体何がきっかけなの?」
ポットから手酌でおかわりを淹れようとしたネルを止めて、空になっていたカップを三人分満たしながら。マリアは小さく息を吐く。
……まったく、くっつくならさっさとくっつけば良いのに。
……まあ。四六時中顔を合わせる相手となると、一度ぎくしゃくすると色々不便ではあるから。できることならそれは避けたいとは思うけど。
……でも好いた惚れたは、当人の意思でどうこうなるようなものでもないし。
小さく礼を言ってカップを受け取ったソフィアが、入れすぎではと思うくらい砂糖をざらざら入れている。なにやらもじもじ考えている。
「……ええと、フェイトが、」
「――ソフィア!!」
ばたん、部屋のドアが開いた。いかにも焦ったフェイトが、息を乱しながら部屋を見渡すとぱっと顔を輝かせた。多分お邪魔しますとかそういう台詞をもごもごともどかしそうにつぶやくなり、ずかずかと部屋に入ってくる。
「ソフィア、さっきは僕が悪かったよ。言いすぎた」
「……ううん、わたしの方こそごめん」
ゆるく首を振って、顔はカップに向いたまま。困ったフェイトがあたふたするのに、右手の華奢なフォークをぴこぴこさせながらマリアが呆れる。
「ちょうど今訊いてたの。何があったのよ」
「いや、別に大したことじゃないんだけど、……ソフィア?」
せめて目を見て何か言ってくれと、情けない顔をするフェイト。ストレートのままカップを傾けるネルが息を吐く。
「――さっきまでソフィア、」
「言わないでくださいネルさん!」
ものすごい勢いで止められる。
しかし、泣いたことを気付かせたくないとしても。泣きはらした顔を見られればおしまいではないかとマリアがぼんやり思ったとき、
「お茶ごちそうさまでしたネルさん! マリアさん、話聞いてくれてありがとうございます!!」
さりげなくぶつぶつつぶやいたソフィアが顔を上げれば、そこに涙のあとは見事に残っていなくて、
二人が何かを言う前にきびきびと立ち上がると、ぺこりと一礼する。
「行こう、フェイト。向こうでゆっくり話したい」
「ああ、うん分かった。ソフィア、本当にごめんな」
「それはもういいから!」
結局二人に何も説明しないままにばたばたと部屋を出て行く。
「……癒しの呪文で、泣いたあとも消せるのね」
嵐の過ぎたあとのようだ。思いながら、マリアがぽつりとつぶやく。先ほどのぶつぶつはそれかと、ネルがなるほどとうなずく。
「結局、何だったのかしら」
「大体分かったよ」
結局手を付けられなかった、本当はネルの分のシフォンケーキをつつきながら。何、と首を傾げるマリアにネルは笑う。
「多分、だけどさ。
フェイトが着替えたかったのにあの娘がまとわり付いたとかそんなとこだと思うよ。気付いたかい? フェイトの服、変わってた」
「…………」
――なんて、どうしようもない。
「……なるほどね」
……まあ。感情をどうしても押し殺す癖のあるマリアには、喜怒哀楽がいっそ大袈裟なソフィアがもしかしたらうらやましい、かもしれない。
深々と息を吐いてティーポッドを持ち上げれば、哀しいかな、それはすでに空になっていて。マリアは再び大きく息を吐いた。
空がいつの間にかオレンジに染まって、そのグラデーションが切ない感じにきれいな。
そんなある日の、他愛のない話。
