きゃあきゃあとかしましい声は、時には苛立つこともあるけれど今日の彼女にとってはそんなことはなかった。相変わらず元気だねえ、そんな風にのんびり思いながら手にしているのは愛用の短刀。
もちろん、背後のかしましい声が彼女自身に降っていたりすればそんな余裕はないけれど、今は幸いそのターゲットはネルではない。
ネルは黙々と短剣の手入れをしていた。
かしましい声は聞こえていたけれど、その内容までは聞いていなかった。
だから、気付かなかった。
「やめなさい!」
大きくはない、けれど鋭いマリアが。耳に突き刺さるように――響いてくるまでは。
「……!」
「マリア……? ち、ちょっとソフィア!!」
マリアの声と、その後の息を呑んだ音。振り返ったのはずいぶん間が抜けたタイミングで、そんなネルの前をソフィアが駆け抜けていく。短剣はじめ手入れ道具を抱えて座っていた彼女は動きようがなくて、ばたんと乱暴に閉まるドアをきっちり見届けてから、背後に立ち尽くす気配をゆっくり振り仰いだ。
怒ったような、戸惑ったような、傷付いたような、無理に笑おうとして失敗したそうな。
言葉にするならひどく複雑な表情で立つマリアは、ネルの視線に気がつくなりふいと顔をそむけた。そむけたけれど、ネルがそのまま頭の中でおおよそ十数えたころには顔を前に戻して、そしてその場にしゃがみこむ。
「……マリア」
「分かっているわよ。悪かったのはソフィアと私、二人とも悪い。
分かって……いるわよ」
小さく丸くなって、うめくというよりはつぶやいて、そんなマリアはまったくいつもの彼女らしくない。ひどくひどく幼い感じがする。落ち込んでいる姿を、こうも素直に見せるマリアはありえないほどに珍しくはないだろうか。
何を言えばいいのか分からなくて眉を寄せるネルに、くすり、多分自虐の笑みだろう、マリアの笑い声が届いて、
「でも……悪かったとは思っても、間違っているとは思わないのよ? だから、あの娘に謝らない」
「……そう」
他に言葉が浮かばないからうなずいたなら、顔を見せないままマリアがまたひとつ笑う。
一行は相変わらず旅の途中で、今日は久しぶりに街について久しぶりにまともな屋根のある宿をとった。二つとった大部屋のうち片方、通称女部屋で、ネルは手入れを続けることを断念すると解体した短刀を手早く組み立てる。手入れ道具を私物入れの奥深くにしまいなおす。
部屋備え付けのソファに埋まるように座ったマリアが、そんなネルを見るとはなしに見つめている。
「……ねえ、」
「なんだい? これしまい終わったら、ちゃんと話聞くよ」
「ううん、そのままでいいわ」
あわてなくてもいいから、言われたところでそんな言葉聞きもしないのは、言われた方も言った方も分かりきっていたけれど。あわただしく手を動かすネルに、マリアが苦笑に似た息を吐く。
「ねえ、ネル? あなたの武器に触れてみたいって私が言ったら、どうする??」
「あとで聞くよって言ってるじゃないか……」
苦笑して、件の短刀を鞘に戻してネルは首を振った。
――考えるまでもない。
「悪いけど、聞けないよ。これは単なる刃物じゃない、扱いを知らない素人に触れさせるわけにはいかないさ」
ただの短刀ならまだしも、毒さえ塗ってあるこれは。扱い方を知らない者が扱っていいものではない。
「じゃあ、もしも同じことをクレアやタイネーブやファリンに言われたとしたら?」
「クレアたちならそんなこと絶対にそんなこと言わないって知ってるけど、それでものもしもだよね? ……それがクレアたちでも、きっと触れさせないよ」
「なぜ? 同じ隠密で同じような武器を使って、素人じゃないでしょう??」
「答えを分かっているのに喰いついてくるねえ」
ネルの苦笑が深くなる。やっとすべてを片付け終わって、改めて振り向いたなら予想どおりマリアも似たような苦笑を浮かべていた。それは先ほどのソフィアのやり取りだったのだろう。聞いていなかったけれど分かったから、ネルの苦笑はただ深くなる。
「きっかけはなんだったのさ?」
「私の銃が重いのか軽いのか、気になったみたい」
マリアと同じソファの、彼女とは逆の端に腰を下ろした。はぐらかすつもりはないけれどはっきりとは答えないネルに、けれどマリアは彼女の方を見ないでどこでもない遠くを見る目になる。
「……銃は元々金属製だから、見た目から想像するよりも重いものよ。あの娘がそれを知ってたとは思えないけど、どこかのバカがそんなことつぶやいたんでしょうね。
でも、私が持つなら私が振り回すなら、そんなに重いとは思えないって」
「あの娘らしいねえ」
……いかにも、まったく闘いを知らない少女らしい。
ネルの目が鞘に納めたばかりの短刀に落ちて、つられるようにマリアの目線も落ちて、それから互いの手に視線は移って。双方の口元に浮かぶのは、やはりどこまでも淡い苦笑。
「軽いはず、ないじゃない」
「人の生命を奪うものだからね、軽いはずはない」
「いいえ、ネルの短剣よりもなお悪いわ。銃なんて、人殺しに特化した武器よ。日常に便利に使うこともできないし、治癒の術の発動キーにもなれない」
実際の質量の問題ではなくて、罪の重さだと。笑うマリアはどこまでも哀しかった。そしてそんなことは、たとえ知識だけでもソフィアに、あの無垢な少女に知られたくないと思う。ネルはそう思ったし、きっとマリアもそう思ったのだろうと分かった。
――ああ、だからこそマリアは鋭い拒否の声を上げるしかなかったのか。
事情は分かって、けれどネルが口を出すことのできることでもなくて、それを最初から分かっていたらしいマリアは。言葉にできてすっきりしたわ、とただ小さく笑った。それが事実少しだけでも軽い笑顔になっていたから、ネルの笑みから苦さが少しだけ薄くなって、かわりに淋しさの色が混じる。。
「喧嘩は両成敗、か」
「どっちも悪いんだもの。だからネルは、しらんぷりをしてちょうだい」
「そうだね、けど……どうしようかね? ソフィア、ちゃんと納得しないと誰彼となく武器に触らせろってさわぐんじゃないかい?」
「それはまあ……そうね。どうしようかしら」
そして顔を見合わせて、同じタイミングで小さくふき出した。そんなことはないと分かっていて交わした、白々しい会話に笑いあった。
ネルの知るソフィアもマリアの知るソフィアも、そんなことはしない。あのときの鋭い声の意味が分からなくても、分からないままでいてほしいけれど、鋭い声を忘れたりしないし誰かにその意味を訊ねたりもしないだろう。
……だからこそ、なんだけどね。
そんなことを思って。部屋のすぐ外から一歩も動かなかった気配に、今までの会話が果たしてどこまで聞こえただろうかと。絶対にその意味を知ってほしくないくせに、どうしてもそんなことを思いながら。
ネルの懐と、マリアのホルスター、
罪の重さは、いつだってずっしりと重い。
知らずにすむなら、その方がずっといい。
