願うのは、ただひとつのことだけ。

―― Nestwarme

からん、じわりと溶けていた氷がバランスを崩して、涼やかな音を立てた。音が立ったことではっと我に返った彼が、からからとわざとらしくそれを揺すって、次を頼む。
「……呑みすぎですよ」
「これくらいで酔いつぶれたりするかよ」
「それはまあ、分かっていますけど」
カクテルグラスに色鮮やかなそれをこくりと一口、穏やかにささやいた彼女が口元にかすかな笑みを浮かべたまま、ひょいと肩をすくめた。
元から照明を落として、品ある雰囲気を作り出したとある町のバー。バックにはなんだかセピアな雰囲気のジャズがゆるり流れて。今日は常連客はことごとく休みらしい。店内に他に客の姿はなく、ただ旅の男女二人だけがゆっくりと杯を傾ける。
店の雰囲気そのままの渋く落ち着いたマスターが、どこまでも静かに。こぽん、こっこっこっ……上物のブランデーが立てる音は、普段の喧騒とはまるで無縁だった。

◇◆◇◆◇◆

――マリアに、彼らの養女に。恋人ができた。
本人はきっと恥ずかしがって、それを隠しているつもりらしいけれど。二人の目には、そんなことすべてばればれだった。

「しっかしいってえなあ……マリアのやつ、なにも本気でひっぱたかなくても、」
「ダメですよ、あの娘は真面目なんですから。からかった罰です――脚が出なかっただけ、マシと思ってください」
ぼやいたクリフの頬には、見事なもみじがくっきりと浮いている。どうしても気になるらしくときどきちょいちょいとつついては、その旅に顔をしかめる彼にミラージュが笑った。
喧嘩慣れして、怪我慣れしているくせに。
――娘からの一撃は、他のそれとはだいぶ勝手が違うらしい。
「ういういしいじゃないですか。もう少し、静かに見守れば良いのに」
「……それができたらなあ」
そしてやってきたグラスをさっそく一口、やけに渋い顔をして呷った。ひょっとして口内にも傷ができているのかもしれない。……だったとしたら、それは本当に珍しい。
苦いものを呑み下すように、けれどペースを崩すことなくぐいぐいいくクリフを。
もう一口、カクテルに口を付けたミラージュが穏やかな笑みでただ黙って見つめている。

◇◆◇◆◇◆

――マリアに恋人ができて。
何のきっかけだったか、今日、つい先ほどクリフがそれをからかった。きっと照れからマリアは見事にかあっと赤くなって、完璧に怒らせる前に、そこでやめておけば良いものを。
しつこく付きまとった結果、頬に一撃喰らった。

「ういういしい……か。まさかあのマリアがなあ」
拾ったときのことでも思い出しているのか、クリフが遠い目をしている。ほんの数年前のことを、まるで昨日のことのように思い出すことのできる記憶を。けれどミラージュもまた、ひどく懐かしい想い出のように思い返す。

◇◆◇◆◇◆

最初は、どこともしれない宙域を漂っている脱出カプセルを、ただ拾っただけだった。宇宙を旅するもののつとめとして、救助を求めている者を助けた、ただそれだけだった。
そしてそのカプセルにいたのは、ずいぶん衰弱した地球人の少女で。

「最初は、ずいぶん警戒されていましたよね、クリフ」
「そうだな……オレに比べてミラージュになつくのはえらく早くて、けっこう傷付いたもんだ」
「あのころはまだクォークも小さくて、特に女性はあまりいませんでしたから。図体の大きな男性ばかりで、おかげで私が目立ったんでしょう」
「……そうだなあ」
含む言い方を無視して、ミラージュはようやくグラスを空けた。同じタイミングでいつの間にか飲み干していたクリフがおかわりを頼んで、少し迷ってからミラージュは先ほどとは別のカクテルを頼む。

◇◆◇◆◇◆

毛を逆立てた猫のように警戒していて、警戒がほどけてもかたくなな心はなかなか開いてくれなかった。なつかれた、といわれたミラージュにしても、他の人間よりもほんの少し近付いて逃げられなかった、程度で。
そして何より、少女ひとりにかまけていられるほど、当時のクォークはまだ軌道に乗り切っていなかった。

ひとを寄せ付けなかった彼女が、最初に受け入れたのは誰だっただろうか、いつだっただろうか。
ただ、一度心をほどいてしまえばあとは早かった。
元来頭の回転が速いマリアは、自分から周囲になじもうとしてそれは成功した。自分が周囲にどう映っているのか本能で察して、一番良い道を計算ではじき出して。それが痛々しいときもあったけれど、彼女はすぐにそれを隠す術を身につけた。きっぱりとした彼女は、もちろん敵も作ったけれどそれ以上に味方も増やしていった。
何より自立を重んじるクラウストロ人たちに、その姿は好感を与えて。

◇◆◇◆◇◆

「マリアは、いいこですから」
「それが、いつの間にか佳い女になってやがった。
……やっぱ複雑だな。あの小さかったマリアが……」
ロックとカクテルが、乾杯に軽く合わされる。涼やかな音がゆるく広がって、マリアの髪の色のカクテルの向こうに、ミラージュは言葉どおり複雑なクリフを見つける。
「しっかし、よりにもよってあいつを選ぶとはな……」
苦くうめくクリフに、ただ微笑みを向ける。

◇◆◇◆◇◆

敵も味方も山ほど作って、そんな生き方をつき進んで、けれどマリアはずっと孤独だった。誰だろうと受け入れる器の大きさはあったけれど、本心、自分の内面にまで踏み込ませたりはしなかった。
他の誰よりも近い場所にいて、
けれどクリフもミラージュも、結局は彼女の本質に踏み込んだことはない。

――そうした瞬間、マリアは砕けてしまいそうだったから。

あのとき、警戒して心を閉じて、敵愾心むき出しの、無機質な目で周囲を見張っていたマリアは。結局、いくら上手に隠されてもマリアの内にずっといた。幼いマリアの内に刻まれた傷は、見えなかっただけでずっと血を流し続けていた。
クリフもミラージュも、その傷の存在は知っていたけれど。
誰にも癒すことのできない、マリアにしか癒すことのできない傷ということも、知っていたから。

◇◆◇◆◇◆

「私は、あの娘らしいと思いますよ」
のどをすべり落ちていくカクテル。くだるに連れてゆっくりと熱を帯びて、胃に落ち着くと同時熱が広がっていく。
その感触もあるいはマリアによく似ていると、ミラージュはふと思う。
「傷を――自覚して、癒そうと、癒してくれる相手を見つけて。私たちの手を借りずに一人でそのひとを見つけて。
そこはとてもマリアらしいと思いますよ」
「……ああ、それは良いんだが、」
「それに」
きっと口を続けようとしたクリフの言葉を遮って、
「私が望むのは、ひとつだけです。
クリフも、――きっと同じでしょう?」
――ねえ、クリフ?

――助けを求めてきたら、いくらでも手を貸す用意はある。
――傷付いて戻って来るなら、安全に守って癒してやりたいと思う。
けれど、そう思う何よりも、強く強くミラージュが望むのは、

「だから、あまり野暮なことは言わないでください。それはきっと過保護と言うんですよ、クリフ。
マリアももう大人なんですから、信じてあげなきゃダメです」
「分かってるんだがよぉ……。手厳しいこと言うなよミラージュ」
ゆらり、への字になっていたクリフの口元にそうして笑みが浮かんだ。
もう一度、グラスが音を立てる。
ミラージュが唐突に、くすくすと笑い出す。

「――変ですね、別に今すぐ結婚するわけでもないのに」
「まったくだな。……とりあえず、オレの目の黒いうちはイヤってほど邪魔してやる」
「そのうち馬に蹴られないように気をつけてくださいね」
「……他人ごとかよ、冷てえなあ。なあミラージュ」
「知りません」
笑いながら、杯をかわしながら。そしてただ、

◇◆◇◆◇◆

いとしいいとしい愛娘に、祝福を。
そして願うのはただひとつ。
――幸せに。
ただ、それだけ。
――幸せに。

そのためなら、いくらでもこの身を削ってあげるから。

―― End ――
2005/11/23UP
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Nestwarme
[最終修正 - 2024/06/26-15:09]