あの時の熱さは、今もなお覚えている。
むしろ、それしか覚えていないと言ってもいいかもしれない。見通しも悪ければ足場も悪いドラゴンロードに対する不満も、呼吸さえ困難なウルザ溶岩洞の熱気も、何とか倒せるもののいちいち相手にしていたらまず確実に力尽きる強さの雑魚モンスターも、もちろん覚えてはいる。だが、それはあくまで事実として脳裏に箇条書きされている情報でしかないし、やはり「その時」に関して自分が覚えていることといったら、あの熱さしかないのだと思う。
最初に覚えたのは、やはり熱さだった。
目の前に強い者がいる、その興奮のせいだろう。痛みなどまるで感じなかった。ただ瞬時に広がる左腕の熱が、致死量のものであることを脳裏がささやいて。感情は浮かばず、ただ世界中すべての物事が遠ざかって。
今から考えれば、驕りもいいところだったのだ。
話に聞いたクロセルは、遠目に見てもやはり従わせることは到底不可能だと判断した。己の強さに酔っていた当時の自分でさえそう認めざるをえないほどに、歳経たドラゴンの王は、強く猛々しく美しかった。
そして、その強さが目くらましになったのだと思う。
何頭ものドラゴンを遠目に観察し、クロセルの強さに眩んだ目は自分の力量を見誤らせた。対等であるべき相手を従わせようと考えていた、その浅はかな傲慢さが、そもそも目を曇らせていたのかもしれないが。
とにかく、両手全身どころか、利き腕ですらない腕一本で力ずくで従わせようとした自分。そのあまりに愚かな自分に対して、そのドラゴンはたしかに小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、その巨体には不釣り合いなほどに小さな炎を吐き出してみせた。
そのささやかな炎ですら、ひと一人焼き尽くして余りあるほどに熱い洗礼だったのに。
「……あ?」
自分の呟きが、なぜかはっきりと聞き取れた。
伸ばした左腕に鮮やかな色がまとわり付いている。それがこの熱を伝えているのだと、認識した瞬間に紅は炎に見えるようになった。瞬きをひとつ。ここにきて、鼻孔に届くものが生肉の焼ける胸の悪くなる臭いだと、ようやく判断できるようになった。
時間の感覚が消失している。いや、――物事を認識しようとする意欲が。ごっそりと抜け落ちている。
まるで現実味がなかった。たかだかデカいトカゲの吐息ひとつで、呆気なく燃え上がった己の腕も。その炎のあまりに鮮やかな紅も。当然感じるべき痛みは皆無で、ただこうしている間にも刻々と高まっていく、耐え難い熱も。
「ああ……」
意味のなさないうめき声を上げているらしい、自分の口。そんな自分を観察している、ねじ伏せられると踏んだはずの、それなりに立派なドラゴン。その嘲笑うかのような瞳。
瞬間、いきなり沸いて出た恐怖。
「っ、ああああああああああああ!!!?」
恐怖が混乱を呼んで、頭の中が瞬時に真っ白に塗りつぶされる。
呆けていた間、周囲は時間を止めていたらしかった。炎はまださほど広がっておらず、ドラゴンの口は炎を吐き出し終わってゆっくりと閉じようとしている。嬲るような冷酷な、感情の読めない瞳がアルベルを眺めている。
それに気付くような余裕は、もちろんアルベルにあるはずもない。
松明のように燃え上がる己の腕に、視線と意識は向いたまま。熱と一緒に、このまま死ぬのだという絶望と、今ごろになって、激痛、などという言葉すら可愛い痛みが押し寄せる。炎は舐めるように広がっていき、指先が炭になっていくのが見えてさらに恐怖が煽られた。
もはや、叫びのた打ち回る自分が、どのような醜態をさらしているのかも分からない。
「この、阿呆!!」
獣のような吠え声。自分に向けられたものとは分からなかった。ただ怒声が耳に届いた瞬間、黒いものと鋭い銀の光が視界をかすめ、激しい炎を纏う左腕、その二の腕あたりに衝撃が走った。熱が遠くなって、あわてて見れば地面に「それ」が転がっていて。
多分、わめこうと口を開けて、しかしその前に頬を殴り飛ばされて地面に崩れ落ちる。
「自分の力量ぐらい把握しろ、阿呆! だから人の話を聞け、忠告を聞けと、散々言ったんだろうが!!」
「……親、父……?」
呆然としながら上げた声は、掠れてひどく弱々しかった。黒衣に軽鎧を身に着けたグラオは一度もそんなアルベルをかえりみることなく、彼が無礼にも力でねじ伏せようとしたドラゴンに、深々と丁寧に頭を下げる。
「私の部下の非礼、幾重にも詫びよう。どうか今回は見逃してやってはくれないだろうか」
『ならんな』
冷酷な、身体に響く低い音。いまだ呆然とそれを聞きながら、しかしここにいるはずのないグラオに、王都で王と共に彼の帰還を待っているはずの父の姿に、薄れた現実味はいつまで経っても元に戻らない。
反抗期に入ってから、彼は父とほとんど顔を合わせていなかった。口すらきいていなかった。それなのに、誰よりも尊敬するグラオが――自分のことを「部下」と言ったことが無性に哀しい。
淋しさにうつむくと、ドラゴンに話しかける際にグラオが脇に放り捨てた抜き身の刀が、珍しく黒く煤けているのが目に入った。何よりも大切にしている銀の刃が、こんな色をしているのは心底珍しい。
そして激痛に、再び意識が己の腕に向く。
それ以上燃え広がることを防ぐために、二の腕でグラオが斬り落としたアルベルの左腕。彼のすぐ脇に転がっている、すでに炭化して元が何だったのかすら分からないモノ。
斬り落とされた際に炎がかすめたのか、腕の残った部分や左脚に、軽くはない火傷を負っていてそれが痛む。肉が焼けたためか傷口からの出血は大したことがなくて、もしも全身を襲う痛みがなかったら、それこそ夢の中のようだった。
そのまま現実から逃げようとした意識を、しかしグラオとドラゴン、双方の声が許さない。
『我に対する非礼だけならば、あるいは盟約に打ち勝った汝に免じて許すこともできたかもしれぬ。しかし、そやつは我だけではなく我ら竜種すべてを愚弄した。死をもって贖わせても到底足りぬというのに、汝は対価もなしに許せと言うのか』
「そうは言わない。対価が必要ならば用意する。私はこいつを見逃してやってほしいんだ」
ドラゴンの知性を感じさせる金の目と、グラオの鮮やかに深い色の目が鋭くにらみ合う。立ち込める圧迫感に張り詰める緊張感に、すでに無力な子供でしかないアルベルの、奥深いところが怯えて身体が震えている。
そして、両者はそのまま一歩も譲らない。
にらみ合いはどれほど続いたのか。少しは怒りが冷えたらしいドラゴンが、不意に笑い出した。見下した目をちらりとアルベルに向けて、笑いのにじんだ言葉を口にする。
『命には命を。対価を支払うと言うならば、人間の剣士、お前がその命を差し出せ。愚かで無力なその子供と己の命、大切な方を選ぶがいい』
「……!?」
動揺したのはアルベルだった。血の気の失せた白い顔で、文句を付けようと開いた口から、しかし声が出ない。
左肩に手を当てて爪を立てて、震えながら地面にへたり込んでいる息子を、その時はじめてグラオが見やった。口の端には冷笑を浮かべ、何でもないモノを一瞥する何気なさで、――しかしその瞳の奥にある、これ以上はないほどの優しいもの。
瞬時にその考えを読み取ったアルベルが、グラオが何かを言う前にさらに白さを増した顔で声を絞り出す。今度は何とか声が出た。……掠れきって弱々しく震えた、これ以上ないほどの情けないものだったけれど。
「ふざけるんじゃ、ねえ……。これは、俺の儀式だ。成功しようが失敗しようが、責任は、全部俺にあるんだ……! いきなり横からしゃしゃり出た関係ない奴が、俺をどうこうするとか、抜かすんじゃねえよ……!!」
『……つくづく愚かで強情な子供だな。まあ、元より愚か者の言葉など聞く気はないが。
人間の剣士、さあどうする?』
ドラゴンに軽く流されて、アルベルはグラオをにらみ付ける。死に対する恐怖はあった。だが、父を犠牲にして生き長らえる絶望の方が、もっとずっと深かった。
「たかが「部下」なんて、馬鹿な俺なんて見捨てて、とっとと帰れ、親父!! 自分の無謀のせいで俺は死んだと王に伝えろ! 馬鹿な選択したら、一生かけて恨んでやるからな!!」
「……ふん、一緒前に吠えるなクソ虫。一生? 今お前の目の前にある死を、見えていないつもりか。その程度の言葉で私が揺らぐとでも思っているのか、阿呆」
どこまでも冷ややかに言い放って、ドラゴンに向き直る。
「私の命でこいつが生きるなら、そちらを選ぶとしよう。約束は違えないでもらえるな?」
『我ら竜族をなんと思っているのだ。裏切りは人間種族のものだ、一緒にするのは侮辱と受け取るぞ』
「……失礼した。愚かでも馬鹿でも阿呆でも、こいつは私の息子でな。どうもこいつが絡むと、私は冷静でいられなくなるらしい」
死を選んだというのに、どこまでも飄々とした態度で肩をすくめてみせるグラオ。
――それを呆然と見ながら。不意に。
ドラゴンが約束を違えないのは本当だろうと、アルベルは絶望のうちで悟った。約束は違えない。つまり、――アルベルのかわりにグラオはここで死ぬ。ドラゴンが、殺す。
まだ、早い。まだアルベルは一度もグラオに勝ったことがない。まだアルベルはグラオに学ぶべきところがたくさんある。まだアルベルはグラオから教えてもらいたいことがある。
まだ、早すぎる。アルベルのせいでグラオが死ぬのは。アルベルがグラオを殺すのは。
「勝ち逃げ、するなよ親父! 俺があんたに、一度でもいいから勝ってから、それから死ねよ!!」
本心からの叫びは、ひどく利己的なものだった。それでも己の心を言葉で飾る気にはなれなくて、アルベルは言い直そうとしなかった。
激痛に耐えて左肩に爪を立てて、血の気の引いた蒼白な顔で父をにらみ付ける。緋色の瞳が火でも吹こうかというほどに、強く強く。
「……まあ、孫の顔くらいは見てから死ぬつもりだったんだがな」
「お――!」
「黙れ!!」
ドラゴンは親子のやり取りを面白いモノを見る目で見つめている。
その視線がうざったくて、しかしそれよりも怒鳴られるなり胸倉を掴み上げられて、アルベルはグラオの目に射抜かれる。
「いいか。私がここで死ぬのはお前の弱さのせいだ。忘れるなよ。私はお前のために死ぬんだ。弱い人間が身のほど知らずなことをしでかしたから、その尻拭いをするんだ」
ひゅぅ、アルベルの喉が笛のような音を立てる。いっそドラゴンよりも獰猛な笑みを浮かべたグラオの、しかしその目は笑っていない。一気に呑まれて、アルベルは動けなくなる。
「見てろ。私が死ぬ様を網膜に焼き付けろ。一生後悔し続けろ。
――それが嫌なら、強くなれ。今日の己の未熟を忘れず、誰よりも強くなれ」
息が、出来ない。瞬きひとつすることができない。
「……誰よりも強くなれたなら、その時は、」
ぱっとグラオの手が離れて、アルベルはその場に尻餅をつく。それでも目は離すことができなくて。恐怖、なのだろうか。身体が震えている。
「腕一本失っても、それだけの強さを手にできたなら、」
居ずまいを正して、不意にグラオが笑った。
今度こそ満面の笑み。先ほどもあった、瞳の奥の限りなく優しい色。透明な、惚れ惚れするような力強い笑顔。笑顔で、真剣な目で最期の言葉を口にする。
「……誰よりも強くなれたなら、その時に許してやる」
――強くなれよ、馬鹿息子。
瞬間。男は轟音と共に紅蓮の炎の中に消えた。
それ以上何も言わないまま、それ以上何も言わせないまま、男を一気に消し炭に変えたドラゴンは、冷ややかな目でアルベルを見下ろす。
立ち去れと、この場から尻尾を巻いてとっとと逃げ出せと。言葉すらなかった。
あの時の熱さは、今もなお覚えている。
むしろ、それしか覚えていないと言ってもいいかもしれない。見通しも悪ければ足場も悪いドラゴンロードに対する不満も、呼吸さえ困難なウルザ溶岩洞の熱気も、何とか倒せるもののいちいち相手にしていたらまず確実に力尽きる強さの雑魚モンスターも、もちろん覚えてはいる。だが、それはあくまで事実として脳裏に箇条書きされている情報でしかないし、やはり「その時」に関して自分が覚えていることといったら、あの熱さしかないのだと思う。
あの時の熱さは、今もなお覚えている。あのときの父の言葉も、一言一句間違わずにすべて覚えている。
あれから。死にもの狂いで強さを求め続けてきた。父を失った喪失感を強さに対する執着にすり替えて、もがき続けてきた。いつしか「歪のアルベル」などという二つ名を付けられて、重騎士隊「漆黒」の団長に祀り上げられて。しかし彼の求める、父の言う「強さ」は一向に手に入った気がしなかった。
いつまでも、彼の中の父は彼を許してはくれなかった。
ずいぶん久しぶりに彼に敗北を味合わせた、青い髪の青年が笑う。腹が立つほどにさわやかにその手を差し出して、彼が今まで想像もしなかった世界に誘う。
笑えない冗談だ。強さに固執しなくなったとたん、彼は強さを手に入れた。
あの時の熱さは、今もなお覚えている。
――けれど、結局は、もう「覚えている」だけになりつつある。
記憶の中の父が、それでいいのだと、懐かしいあの惚れ惚れするような力強い笑顔を浮かべている気がした。それが「強さ」だと、笑っているような気がした。
