それは、純粋な恐怖だった。
それは彼にとって、喪失そのものだった。
「――――!!」
王が軽くうなずいて合図をして、黒ずくめの男が軽く手を上げた。さっとその手が下ろされると同時、横に一列になっていた竜たちが炎を吐く。吐き出された真紅の塊はその場に積み上げられた骸へと移って広がって、
たなびく黒煙、――魂が天へと昇っていく。
敵も味方も、アーリグリフもシーハーツも、兵も民も関係ない。
竜の炎で、魂が天に還っていく。
「……小僧、意地を張るのも大概に、」
「うるせえジジイ、話しかけるんじゃねえよ」
国葬の最中、正装の老爺が彼の脇に立つ歳若い将軍へぼそりとつぶやいた。
いつもの、この地の気温を考えれば正気を疑いたくなるような軽装、刀を手に仁王立ちになる姿。まっすぐに前を見すえて、もとい、にらみ付けるその顔は遠目にも血の気が引いた真っ白い顔で、近しい間柄の老爺でなくても心配をしたくなる。
けれど彼は、先日三軍の長になったばかりのアルベルは。老爺の気遣いの声を、乱暴にばっさり斬り捨てた。
彼が炎の継承の儀式に出かけたのは二年前の春だった。そして数日後、目付け役の父を喪い、自身も生死の境をさまようような大怪我を負って倒れているのを発見された。
怪我から回復するのに数ヶ月を要した。なまった身体を取り戻すため、あるいは喪失をまぎらわせるために、怪我を癒してからは無茶な任務に明け暮れた。
まるで死を望むような無謀な行動に以前の彼を知る者たちは一様に眉をひそめた。そのためとはいわないけれど、任務達成の功績とあわせて、血生臭い腕の強さを認められて。実力主義の王が漆黒団長に取り上げたのが数日前のこと。
そして、団長となった彼の最初の任務は、こうして国葬に参加することだった。
竜が炎を吐く。人の身体は簡単に燃え上がる。
煙がにおいが周囲に広がって、そしてあとには灰さえ残らない。
広い土地を持たない山国で、それは死者に対する最上の弔い方だった。単なる脚ではなく戦いの道具ではなく、竜には特別な意味があったから。その竜に身体を焼かれて不帰の旅路へ発つことは、死者にとって最上とされていた。
――けれど何も語らないアルベルにしてみれば、どうしても父の死の瞬間を思い起こさせる、ただそれだけの拷問にも似た儀式だろう。それを目にして一歩も怯まない姿は、尊敬を集めるよりもひどく不安をかきたてる。
「小僧、」
「……うるせえんだよ」
――お前の過去を思えば別に欠席してもかまわない、なんだったら別の任務に出かけるか?
時期が重なったのは、単に空席を早く埋めたいだけと言い切った王は、組んだ手に口元を隠してそう言った。
――兵も民も主の過去を知っておる。式の途中で姿を消したところで、誰も主を責めぬ。
いらないことまで知っている、最近特に口うるさい老爺はそんなことを言って息を吐いた。
――大変だな。
もとは父の副官で、現在はそのあとを継いでいるあのいけ好かない男は。同情の言葉を軽蔑のまなざしで吐き捨ててくれた。
どれもこれもが、誰より自分を責めている、責め続けている彼を挑発しているように聞こえた。
ただまっすぐに立つ、それにこれほどの労苦を必要とするとは。
身体より先に怯える心を叱責するのが意地だけだと、そんなことは知っている。
たかが竜の動き、乗り手の意思に忠実に従う飼い犬どもにさえ、あれから数年たった今、なのにまだこれほど恐怖を覚える。
痛みさえ、心を抉る痛みさえ。まだ、……まだこんなに鮮明で。
身体の震えを、目の怯えを、こみ上げる吐き気を、薄れ行く意識を。
意地、――そう意地だけで、けれど逃げたくないという負けん気だけで。
つなぎとめて。
奮い立たせて。
これは国葬などではない。
彼にとっては、まったく別の儀式だったから。
逃げるわけにはいかない、心折るわけにはいかない儀式だったから。
竜が吠える。
びりびりしたその空気を全身で受ける。
それは、純粋な恐怖だった。
それは彼にとって、喪失そのものだった。
けれど誰よりプライド高くて意地っ張りな彼は、その心を認めるわけにいかなかった。
自身に対する罰だと思った。
歪んでいく。
父の死によって彼の心に生まれた歪みが、どんどん大きくなっていく。
誰の手でも到底ほぐせそうにないほど、ますますかたくななに自分の殻に閉じこもってしまう。
気付かなかった、気付けなかった、気付いてももうどうしようもなかった。
竜が吠える、炎を吐いて死者を天に送る。
食いしばった奥歯に悲鳴をかみ殺して。
彼の心の歪みが、どんどん大きくなっていく。
