それは、彼女はまるで儚い影のようで。
手をのばしたならその瞬間かき消えてしまう、そんな美しい幻影のようで。

―― fleur de lune

――聞こえる、それはなんて甘くてなんてさわやかに透き通った音だろう。
夢の中に届いたそれに、ルークはふと目を醒ました。ぼんやりと瞬いてほにゃりと顔をゆるめて、そしてふと首をかしげるとゆっくり起き上がる。くしゃくしゃになった毛布を脇にどけてまだ眠い目元をこすってみる。
何かが転がったような気がして目を向けたなら、それはどうやら彼の毛布にまぎれ込んでいたミュウだった。小さな身体を丸めてなんだか幸せそうにくうくう寝息を立てている。
……ええと……?
眠気はまだ頭に残っていて、なぜ自分が今起き上がっているのか、眠気を追い出そうとしているのかが分からない。分からないけれどしつこく眠いけれど、今寝入ったらものすごく損をするような気がする。
目元にかかった前髪をいじってまたひとつ首をかしげたら、ふと、――音が届いた。

歌詞は分からない、何を詠っているのか言葉を聞き取ることができない。けれどそれはすっかり耳慣れたはずの仲間の少女の声で、歌で、人の身体から出るものとはいっそ信じられないほど美しい音だった。
ゆるりと首をめぐらせて、今もまだ詠う声の主を探して。
そして彼は息を呑む。――分かっていたはずなのに、想像していたはずなのに。それでも目に映ったものに彼はなお息を呑んでいた。

◇◆◇◆◇◆

白々とした月の光に輪郭を浮き上がらせた、青い影をまとうほっそりとした後ろ姿。きっと大きく腕を広げて、それはまるで身体いっぱいに月光を浴びているようにも、世界のすべてを抱きしめようとしているようにも見える。
あるいは、――そのままふっとかき消えてしまうのではないか。そんな風にも。
さらりと風が吹いて彼女のしなやかな髪をさらって。いよいよあらわになった背中は、彼の乏しい語彙すべてをかき集めてひっくり返しても「美しい」以上の単語が見当たらない。陳腐なその単語程度ではとうてい表わしきれない彼女の姿に、なんだかもどかしくて情けなくて、内面のそんな揺れをものともしない身体は凍り付いたようにただじっと彼女に魅入っていて。
今この胸にこみ上げるこの感情を、自分以外の誰かなら、たとえば仲間たちなら的確に言い表すことができるのだろうか。それともこれは、誰もが名付けることのできない特別な感情なのだろうか。
――分からない、けれど。
それよりもなお、彼女は――ティアは、

◇◆◇◆◇◆

何度も、見たのに。
彼女が不寝番のときにはきっと何回も見ているのに。どうやら無用に魔物を寄せないためのこの歌は、夢にも現にも何回も聞いてきたし、だから詠うこの姿はそんな夜にふと目を醒ましたなら何回も見ているのに。
もう決して短くはない彼の旅の間に何度も、そしてきっとこの旅が終わるまでこの先何回も。
同じ姿を、この細い背中を何度も見てきたのにこれからだって見るに違いないのに。
それなのに目にするたび、同じ感情が心に生まれる。何回もはじめてのように胸の奥にわき上がる、満たしていく、あふれていく。いい加減慣れてもいいと思うのに、何回目にしてもまるで見慣れないまま。見飽きることのないままに、ルークの心はかき乱されていく。

どきどきして落ち着かなくて、それなのに心の揺らぎが変に心地良い。情けない自分に腹を立てるのに心のどこかは安堵して、今すぐ耳をふさいで寝入ってしまいたいのにもっとずっとこの歌を聞いていたいと願ってしまう。
いまだに彼にはよく分からない「気配」を見事に察するティアのことだから、こうして起き上がって注目して動揺するルークにきっと気付いているのかもしれない。けれど振り向かないのは詠う以外の声を上げないのは、果たして彼にそれだけの価値がないのか、それとも振り向いていちいち確認しなくてもこと足りてしまうくらい、彼のすべてを知っているからなのだろうか。

声をかけたならきっと振り向いてくれるだろう。あるいは彼女の元へ一歩でも近付いたなら、この歌は途切れるのだろう。
いつもの涼やかな目で、あるいは微笑みかけてくれるかもしれないし、
薄い唇をむっと引き結んで、休めるときは休んでおきなさいと叱ってくるかもしれないし、
もっと他の何かの表情を浮かべるのかもしれない。

――それはそれで見てみたいと思うけれど、けれどなんだかもったいないような気もするから。

◇◆◇◆◇◆

それは、彼女はまるで儚い影のようで。
手をのばしたならその瞬間かき消えてしまう、そんな美しい幻影のようで。

月の光を集めたような固めたような、この夜の彼女は歌は、きっとほんの少しでも邪魔してはいけないものだとなぜだか強くそう思ったから。思ってしまったから。
くしゃくしゃにいい加減にどけてあった毛布をもう一度手に取って、彼は再びそれにもぐりこんだ。ころんと転がったミュウがいかにも寝ぼけた動きでその毛布にまぎれ込もうとして、とりあえずそれにはかまわないことにした。

目を閉じたならまぶたの奥に細い背中が浮かぶ。くり返しくり返し、甘くさわやかな歌声は夢にも現にも彼の元に届く。
それだけで十分だ、と。
思った瞬間には彼の意識はすとんと闇に呑まれて。

夜の下に歌はまだ消えない。

―― End ――
2006/07/02UP
ルーク×ティア
OFP
中国語・無断転載禁止 ハングル・無断転載禁止
fleur de lune
[最終修正 - 2024/06/27-09:53]