逃れようとは思わなかった。
けれどそうと望んだところで、きっとそれはかなわないのだと思った。

―― avec force

間近で聞こえた悲鳴に、一気に意識が覚醒する。無意識に探ったなら気配の揺らぎはほぼ全員分あって、つまりそれに気付いたのは彼女だけではなかったということで。
それでもそれは、……もう珍しいことでもなかったから。
他のメンバーと同じく気付かないふりをしようとして、けれど彼女にそれはかなわなかった。ばたばたと探るように落ちてきた手が彼女の身体に触れた瞬間、するりと巻きついてぐっと抱きしめられる。
「……!?」
驚いたのは一瞬、身体のこわばりもきっと一瞬。それでも確実に伝わっただろう動揺に、けれどその腕の力はゆるまない。

◇◆◇◆◇◆

「ルーク……?」
寝ぼけたふりを装った声は、果たして成功していただろうか。この腕の細かなふるえに気付いていないふりは、果たして彼に通用しているだろうか。
先ほどの悲鳴の主、そして今彼女を抱きしめる腕の主。
赤い髪の青年は、彼女の声に不意にがばりと顔を上げて。
「……あ、れ……?」
「寝ぼけたの? わたしは抱き枕なんかじゃないんだけど」
「分かってる……けど……あれ?」
それは本当に無意識だったのだろう、本当にわけが分かっていないように。困惑したようにつぶやきながら、こくりと首をかしげている。
「なんで……わ、悪い、ティア」
「――下心がないなら、許してあげなくもないけど」
「なんだよそれ……」
今度はいかにも不満そうにつぶやいて、けれど彼の顔を見ていないティアには実際彼がどんな表情を浮かべているのか分からない。自分の顔を見られたくはないし、彼の顔を見るつもりもないから、彼の表情は分からないけれど顔を上げて確認するつもりもない。
――だって、懸命に冷静を装おうとしているけれど、実際は火でも吹きそうに熱い頬なんてルークに見られたくないし、
――だって、自分だって悪夢に起こされたとき、その顔は誰にも見られたくないと思うし。

今こうして彼女を抱きしめる腕は、まだ細かくふるえている。いっそ痛いほどきつく抱きしめられて、すがりつくようなこの腕は、まだまだゆるむ気配がない。先ほどの彼の声も同様に、細くかすれてふるえていた。
――そのいくつに、彼自身が気付いているかは分からないけれど。

◇◆◇◆◇◆

あのとき。それが何を引き起こすか考えもしないで、命じられるままに禁忌の力を発動して、セフィロトを分解して街ひとつ消滅させて――そこにいたたくさんの人々の生命を奪ったのは、彼。
一度は逃げた罪の重さから、けれどもう逃げない、罪と向き合う、ちゃんと罪を背負うと決めたのも彼。
奪った生命は戻らなくても、せめてできることからしていきたいと、必死に考えて全力でぶつかっていくようになったのも彼で。

けれど犯した罪は、ルークの中ではまだ「過去」ではなくて。
いまだけっこうな頻度でもって彼は悪夢にうなされ飛び起きていて。

◇◆◇◆◇◆

沈黙が落ちて居心地が悪くて、身体に回る腕は動かなくて。
悪い夢でも見たの、なんて思わず訊ねようとして、けれど知らないふりをしてきっと真実ど真ん中を突くのはどうだと思い直した。
「一体、なに……?」
上げた声に彼の身体がびくりと跳ね上がる。
「……何でもねーよ」
「何でもなくて、あなたは寝ているわたしを起こしたの?」
「うっ」
ぶっきらぼうにふてくされたような声、少し意地悪く返したなら息を呑む音。暗闇の中に、わざとそらした視界にためらうような空気が流れて、――やがて、おずおずと、
「ティア」
「……ん?」
「はなせー、とか、何するのー、とかって、おまえ言わねぇんだな」
「言ってほしいの?」
「ほしくね」
素直な即答に思わず息をもらしたなら、笑うなよ、なんてまた声がすねて、
「さっきから、全然、暴れたりもしねーし」
「純粋な腕力勝負じゃあなたにかなわないもの」
「そうか……そんなことねえと思うけど?」
「鍛え方と得意分野の違いね、あなたには譜歌は使えないでしょう?」
「そだ、譜歌も詠わない」
「……そんなにわたしに逃げてほしいの?」
うっ、また息を呑む音が聞こえて、ちげーけどなんかフに落ちないっつーか、なんてもごもごが続いて、
逃げるつもりはないのに痛いほど全力で彼女の身体に回る腕は、ゆるむ気配がなくて。

「――手」
「て?」
「さっきからどうにかしようと思ってっけど、何でか手が動かねぇんだ」
どうしよう、なんでだ、なんてかすかなつぶやき。泣きそうな気配にむしろティアの方があわてて、いまいち働きの鈍い頭を懸命に回そうとする。
「……悪ぃ」
「謝ることじゃないわ。誰彼なく抱きついたりしたら問題だけど、時と場所をわきまえるべきだと思うけど、――わたし今、逃げようとしてないでしょう?」
――だから、大丈夫よ。
自分でもよく分からない理屈に、けれど彼はなぜか納得したようで。
「――うん」
声よりも先にうなずく動きが身体に伝わって。ティアの心臓が大きく跳ねる。

◇◆◇◆◇◆

悪夢に怯えてささくれた彼の心が、他でもない自分を、偶然かもしれないけれど自分を選んでくれたのが嬉しかった。実際他の意図があったのかなかったのか、こうして抱きしめられることはなんだかくすぐったいけれど居心地が良かった。この肌に触れる彼の体温は、どきどきするけれど決していやなものではなかった。
悪夢に萎縮した心が、ただ本人以外のぬくもりを求めただけかもしれない。
それでも、「たまたま」でもそれが自分だったことがなぜだか奇妙に誇らしくて。

身体に回った腕、だいぶおさまってきたけれどまだかすかにふるえる腕。腕力だけでは確実にかなわない、けれど他の方法はいくらでもあるのに逃れようとしない自分を、彼は一体どう思っているのだろうか。
それともまだ彼の中に悪夢は残って、気付くだけの余裕はないのだろうか。

――知りたいけれど知りたくない、何も分からないままがいい。

利己的につぶやいた心、ふっと落ちてきた吐息。なんだろうと少しだけ身構えたなら、ますます腕に力がこもる。
少し息苦しい、少しだけ痛い。けれど同じくらい、それはどこか心地良いもので。
「は、は……くそっ、ダセぇな、おれ」
「そんなこと、ないわよ……大丈夫。大丈夫だから」

逃れようとは思わなかった。
けれどそうと望んだところで、きっとそれはかなわないのだと思った。
すがりついてくる彼を見捨てることは、きっと甘い自分にはできないのだと。ひょっとしたらこの胸の奥気付きたくない気持ちから、それは絶対にかなわないのだと。
なんだか、悟って。

ずっとただ脇に落ちていただけの彼女の腕が。

――やがておずおずと彼の背に回る。

―― End ――
2006/07/05UP
ルーク×ティア
OFP
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avec force
[最終修正 - 2024/06/27-09:53]